天地人 第四十五回 「大阪の陣へ」

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時間が一気に進み、「関ヶ原の戦い」後の状況から「大坂の陣」へと至る過程が描かれる回ですが・・・
しかしストーリーの構成が最優先されており、「大坂の陣」に至る過程の大部分は省略されていたと言えます。
時代が移り変わっていく中で、「考えを変える者」と「変えない者」の差が表現されていた回でもありましたね。

時間の流れが早かった事もあり、初回から登場していた上杉謙信の姉「仙桃院」は今回でついに退場です。
さらに登場したばかりの「本多政重」こと直江勝吉もおそらく今回で降板、直江兼続の子「竹松」もこども店長から一気に青年になります。
天地人もいよいよ大詰め、残すところ後わずかですね。


○ 今回の時期 1605年3月 ってどんな頃?

・徳川家康が(名目上)隠居して、将軍職を息子の「徳川秀忠」に譲った頃
・これにより徳川家が将軍職を豊臣家に返す気がないことが示される
・これによりますます豊臣家の権威が落ちている頃


上記はあくまで、今回のドラマの「開始時」の話です。
今回はこれまで放映された「天地人」の中で、もっとも「時間の流れが早かった回」です!
実は今回だけで、約10年も経過しています!!
しかし10年も経っているのに、劇中で年月が進んだことを示すテロップが出なかったので、歴史に詳しくない人だとまさかそんなに経ってるとは思わなかったでしょう。
途中で「五年の月日が流れ・・・」というセリフが一言あったのみでしたからね。
演出側も、時間の流れをあまり表現したくなかったのかもしれません。
「その間に何もなかったのか?」という話になってしまいますから・・・


○ 徳川家康が息子に将軍を譲ったの? じゃあもう家康はただの隠居ジジイ?

徳川家康は江戸に「幕府」を開いて、わずか2年で隠居してしまいます。
しかし隠居と言っても実際には大きな権力を持っていたままであり、まだまだ政治に口出ししていました。

むしろ徳川家康は「駿府城」という自分の城を新たに作らせ、そこに重臣を集めて幕府に様々な指示を出していました。
つまり実権は徳川家康が持っていたままだった訳で、これを「大御所政治」と呼びます。

今でも、会長の方が社長より権力を持っていて会社の運営にも口出ししている場合や、古参の大物政治家が実権を握ったままになっているような場合には、「大御所政治」と呼ばれることが多いですね。

家康がこの「大御所政治」の体制にしたのは、幕府の将軍職を自分の息子に継がせる、つまり徳川家の世襲であると公表することで、豊臣家に権力を返す気がないこと、天下の主は徳川家であると言う事を知らしめるためであったようです。
ちょうどこの前年、二代目の将軍となった「徳川秀忠」には息子が産まれていました。 後の三代将軍「徳川家光」です。
家康→秀忠→家光 という世襲の形がハッキリ見えたことも、この早期の隠居に影響したと思われます。

ただこういう理由がなくても、戦国時代に「主君が息子に早い段階で家を継がせて、自分は大御所として運営に参加する」というのは、非常に一般的な事でした。
上杉謙信が死んで、上杉家で「御館の乱」が起こったのを見てもわかる通り、早く跡継ぎの体制を整えておかないと「跡継ぎ争い」が起こる危険があります。
戦国時代はいつ死ぬか解らない時代。 出来たばかりの幕府に一刻も早く世襲の形を作り上げたかった、というのが本音だったと思われます。


○ 豊臣秀頼に嫁いだ徳川家康の孫娘「千姫」って?

今回初登場、大坂の陣の1つのポイントとなった姫が、この「千姫」です。
父は二代目の将軍「徳川秀忠」、母は浅井長政お市の娘「浅井三姉妹」の一人である「」です。
「江」は、2011 年の NHK 大河ドラマ「江 〜姫たちの戦国〜」で主人公となる人物です。

千姫はわずか7歳で、家康の命令で豊臣秀頼に嫁ぎます。俗に言う「政略結婚」です。
二代目の将軍となる徳川秀忠の娘で、家康の孫娘でもある彼女を豊臣家に嫁がせる事で、徳川家康はなんとか豊臣家を懐柔し、交渉で臣従させたいと考えていたようです。

豊臣秀頼と千姫の仲は非常に良かったと言われており、淀と千姫の仲も当初は悪くなかったと言われています。
ただ、秀頼と千姫の間に子供が出来ていないため、淀により物心がついた頃にはすでに遠ざけられていた、という説も有力なようです。
この辺りは当時の大坂城の内情を示すものが少ないため、詳細はよく解っていません。

母「お市」の美貌を受け継いだと言われる美人で、「大坂の陣」でドラマチックな行動・境遇にあったこともあり、多くの小説やドラマで取り上げられている人ですね。


○ 今回は約10年経過!? 「大坂の陣」に至った経緯って何なの?

ドラマでは「大阪の陣」に至る過程は「最初と最後の部分」だけしか描かれていませんでした。

とは言え、もっとも重要な部分・・・ すなわち、徳川家康が将軍職を息子の「徳川秀忠」に譲って、豊臣家に政権を返すつもりがないのを示したこと、
「淀」が意地でも徳川家に従うつもりがなく、我が子の豊臣秀頼こそが天下の主だと主張し続けていたこと、
徳川家康が豊臣家が作った鐘に「国家安康」と書かれているのを見て、「家康の文字を分けて呪っているものだ!」という「言いがかり」を付けたと言う事、
この3点は表現されていました。

しかし、なにせ実際には約10年も経っているのです。
徳川家康が将軍職を息子の「秀忠」に譲って、それに「淀」が怒って、だから家康が「言いがかりを付けた」では、一見繋がりそうで、ホントは繋がりません

では一体、この期間に何があったのか・・・
「大坂の陣」に至る流れをもう少し詳しく説明すると、以下のようになります。

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・「関ヶ原の戦い」で徳川家康が勝ち、石田三成が負ける。(1600年)

・石田三成ら大坂の首脳陣がいなくなり、豊臣秀頼もまだ幼かったため、その母である「淀」に権力が集中してしまう。(1600年)

・豊臣家は大幅に領地減少。西軍側の多くの大名家も領地を没収され、上杉家も領地を大幅に減らされ米沢に移転する。(1600年〜1601年)

・徳川家康が朝廷から「征夷大将軍」という役職(官職)を与えられ、江戸に「徳川幕府」を開く。(1603年)

・徳川家康、娘の「千姫」を豊臣秀頼に嫁がせる。つまり豊臣家への懐柔策を取る。(1603年)

・年始の挨拶で多くの大名が徳川家康の元を訪れるが、豊臣家に最初に挨拶をした大名はいなかった。(1604年)

・幕府政治が機能し始めることにより、豊臣家の権威がさらに衰退していく。直江家では本多政重が養子入り。(1604年)

・徳川家康が隠居、将軍職を息子の「徳川秀忠」に譲る。これにより徳川家が「将軍」を務め続ける事がはっきりし、豊臣家に権威を返す気がないことが示される。(1605年)

・徳川家康が豊臣秀頼に新しい将軍への挨拶を要請。しかし淀はこれを拒否し、「豊臣家は臣従するつもりはない、強制するなら秀頼と切腹する」と、徳川家に対する態度を明確にする。 家康はこれを穏便に済ませるが、諸国に緊張が走り、京都・大坂では合戦に備え逃げ出す人が多く出る。(1605年)

・家康の新しい城「駿府城(静岡県静岡市の城)」の大改修開始。豊臣家もこの改修を要請され、これに応じる。(1606年)

・駿府城が完成。徳川家康はそこに移り、なおも政治に関与する。俗に言う「大御所政治」の体制が出来る。(1607年)

・徳川家と豊臣家の交渉が続いていたと言われているが、進展なし。 上杉謙信の姉「仙桃院(仙洞院、綾)」はこの頃に病死している。(1608年〜1610年)

・新しい天皇が即位する事を契機に、徳川家康が天皇への挨拶を豊臣秀頼に要請。同時に、家康と秀頼の会見も要請する。これに淀は反対するが、加藤清正、福島正則、高台院(秀吉の妻。北政所、ねね)などが説得を行う。秀頼自身が会見を望んでいたとも言われている。(1611年)

徳川家康と豊臣秀頼が京都で会見。家康は立派になった秀頼を見て、「親離れや淀の説得を期待した」とも「その存在に危機感を持った」とも言われている。会見自体は和やかに終わったという。(1611年)

・会見の成功に尽力し、秀頼の護衛も行っていた加藤清正が、帰国中に船上で病となり急死。なお、豊臣家と徳川家の双方に近く、加藤清正と共に会見で秀頼を護衛していた浅野長政も同時期に病死している。(1611年)

・直江家では養子になっていた本多政重が直江家を出奔(退去)、前田家に仕官する。(1611年〜1612年)

・豊臣家はこの頃、前田家に援助を要請していた模様。 徳川家は各地の大名家から「幕府に背かない」という内容の誓詞(約束)の提出を要請している。(1612年)

・前田家、領地の返上を幕府から迫られたり、謀反の疑いをかけられたりするが、本多政重が交渉役を務め、この危機を乗り切る。(1612年〜1613年)

・豊臣秀頼が朝廷(天皇家)から、より上位の官位を得る。 この時の朝廷への要請は幕府の定めた法令を無視して行われたものだった。 また、この頃から豊臣家は浪人の雇用や兵糧の蓄えなどを積極的に始める。(1612〜1613年頃)

・幕府は豊臣家に対し、各地の寺院の修繕などを要請する。豊臣家はこれに従う。幕府側も武器の調達などを開始する。(1612〜1614年)

・前田利長(前田利家の子)、池田輝政や浅野幸長など、豊臣家に近い高齢な大名の病死が続く。(1612年〜1614年)

・徳川家康、豊臣家が「方広寺」というお寺に作った「鐘」に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれているのを見て、「家康の字を分けて呪い、豊臣が主君になる意味だ」という「いいがかり」を付ける。(1614年)

・豊臣家、家臣の片桐且元などを派遣して家康に弁明。 徳川家康は「秀頼の臣従、淀を江戸へ人質に出す、国替え(移転)する」の3つの条件のどれかを承諾するよう返答。 豊臣側はこれを拒否。(1614年)

・豊臣家で和平派だった片桐且元、暗殺されそうになり豊臣家を脱出。 豊臣家は合戦の準備を開始し、徳川家康は豊臣家討伐を宣言。(1614年)

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以上が「大坂の陣」に至る経緯です。

年表を見てもわかる通り、重要な出来事は1605年の「徳川秀忠の将軍就任と淀の挨拶拒否」、1611年の「徳川家康と豊臣秀頼の会見」、1613年頃の「豊臣家が幕府を無視して官位を要請、豊臣と徳川の双方が合戦準備を開始」の3つですね。

淀が徳川幕府に従わない姿勢を表面化させてから、徳川家康と豊臣秀頼が会見を行うまで、6年も間があることがポイントです。
1605年に淀が反徳川の姿勢を見せた時、合戦になると各地が緊張状態になったのですが、徳川家康はこの時は事を穏便に済ませました。
この時点では、なんとか豊臣家を交渉で臣従させたいと考えていたようです。
しかし6年も交渉しても結果が出ず、1611年に何とか秀頼と家康の会見まで持ち込んだものの・・・ そこから両者の関係は急速に悪化してしまいます。

この急速な悪化は、一般には「家康が立派な秀頼を見て危機感を抱いたから」と言われることが多いのですが、豊臣家の実権は相変わらず「淀」が握っていたため、「最後の手段であった会見も、淀の存在や考えを変えることが出来なかったから」という見方の方が自然かもしれません。

また、この頃から豊臣家の方も急に軍備を始めているので、「豊臣家が焦り始めた」という見方が一般的なようです。
焦り始めた理由は正確には解りませんが、豊臣家に近い有力大名の高齢化や病死が進んでいたことや、徳川幕府の体制が年々強固になっていった事など、理由はいくつも考えられます。

なお、ドラマの冒頭の解説で「家康が秀頼の関白を剥奪」という説明がありましたが、これについては詳細がよくわかりませんでした・・・
家康の城「駿府城」の工事を豊臣家にも要請したのは、確かに「豊臣家が他の大名家と同列に扱われた」事を示すものですが、緊張が走っていた時期だったことと、これがあってから大阪の陣が起こるまでに8年、会見までも5年あるので、逆に融和策だったのではないかという見方もあります。
いずれにせよ淀にとっては面白くなかったと思いますが。
冒頭の説明だけ見ると、駿府城の工事が引き金のように思ってしまいがちですが、実際には間にかなり長い年月が入っているというのに注意しましょう。


○ いきなり「直江勝吉(本多政重)」が直江家を出て行ったけど、なんで?

ドラマでは呼び出されたような感じで直江家を出て行った本多政重
実際には、彼は「出奔」(勝手に出て行ってしまう事)だったようです。

なぜ彼がいきなり上杉家を出奔してしまったのか・・・ その理由は不明です
ドラマでは出てきませんでしたが、彼は最初の妻(直江兼続の娘、お松)に死なれた4年後、直江兼続の弟「大国実頼」が養育していた娘「お虎」と再婚しています。
この時には本多家(本多正信の本家)から、お祝いとして幕府に収める税金の免除なども受けています。

しかしその2年後・・・ 直江家から出ていってしまい、当時は120万石の大大名だった「前田家」に仕官しています。
彼は直江家に来る以前は前田家にいた人なので、前田家に戻った、とも言えます。
そして前田家に再仕官した後、妻(お虎)と多くの直江家の家臣が、彼を追って前田家に行っています。

出奔した際にはその要因が一緒に記録に残っている事が多いのですが、彼についてはどうも不明なようです。
ケンカ別れなのか何なのか? 家臣も前田家に行っているので財政的な問題だったのか? それとも何かの交渉や計画があったのか?
詳しいことが解らないので、何とも言えませんね。
ドラマで描かれていたように、直江兼続に実子がいて、病弱だったけど無事に成長したので、自ら出て行くことにした、という説も確かにあるようです。

その後、彼は前田家が徳川幕府から領地(越中)の召し上げをされそうになった時や、兄の「本多正純」から謀反の疑いをかけられたりした時に、懸命の弁明を行って前田家の危機を救い、家老にまで出世しています。
前田家は当時、ちょうど豊臣家に頼られていた時期で、重要なポイントにあった大名家だったので・・・
そこに急に出奔したあたりも、彼が「間者」と言われる要因の1つかもしれません。


○ 「国家安康」は家康の字を分けて呪ってるって、本当?

徳川家康が豊臣家に「言いがかり」を付けた、有名な「方広寺鐘銘事件」。
豊臣家が「方広寺」というお寺に収めた鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれているのを見て、「これは『家康』の字を2つに分けて呪い、さらに『豊臣』が主君になって栄えるという意味だ!」と言いがかりを付け、豊臣家に釈明を求めた事件です。
「大坂の陣」の直接のきっかけになった事件として知られていますね。

ドラマではこの「言いがかり」を直江兼続のライバル役をしている「遠山康光」が進言していましたが、史実でこれを言いだしたのは、後に「黒衣の宰相」と呼ばれる徳川家康の参謀の僧侶「以心崇伝(金地院崇伝)」です。
彼はそれ以前から、「豊臣家に各地の寺院の修繕を命じて、その資金力を削ぐ」という案を提示していました。
その寺院の修繕で作られた鐘の文章にこのイチャモンを付けた訳ですから、まさに豊臣家は以心崇伝の術中にハマったとも言えます。
また、これを元に豊臣家を攻めようという計画を作ったのは、本多正信の子にして本多政重の兄「本多正純」であったようです。
が、そもそもこんな言いがかり、誰の目にも強引な訳で、最初から「ムチャな言いがかりで相手を怒らせる」という考えもあったのかもしれません。

これに対し豊臣家は、「片桐且元」と「大蔵卿の局」という2人の使者を派遣し、弁明を行います。
ところがこの2人に対し家康は、大蔵卿の局には「ぜんぜん問題ないよ〜ん」と言い、片桐且元に対しては「ぜってー許せねー! 臣従するか、淀を人質に出すか、別の場所に引っ越すか、どれかを選べ!」と返答。
そのため豊臣側は「大蔵卿の局」の報告を信用し、片桐且元に「徳川家康と結託しているのではないか」という疑惑の目を向けてしまいます。
結果、片桐且元は命を狙われてしまい、豊臣家から脱出
そしてこの事を徳川家はさらに非難し、豊臣家は合戦が不可避であることを知って防戦体制を固め、徳川家康はついに豊臣討伐を宣言します。

片桐且元の件も徳川家康の術中にハマったと言えますが、片桐且元はその後に徳川家康の元に逃れ、大阪城攻めでも様々なアドバイスを行っています。
単にハメられたのなら家康の元に行くとは思えないため、これらが実際に家康の「謀略」だったのかは解りません。
いずれにせよ、豊臣家はもう徳川側が「本気で合戦をする気になった」時点で、戦いは避けられない状況だったと言えます。

そして時代は、戦国の終幕「大坂 冬の陣・夏の陣」に向かうこととなります・・・


○ ちょこっと解説

・伊達政宗が徳川幕府に深く入り込んでいた

伊達政宗は徳川家康と仲が良かったことが知られていますが、徳川秀忠とも非常に仲が良かったようです。
そのためか、徳川秀忠から徳川家の元の名字「松平」の姓まで送られています。
同時に東北地方を収める意味を持つ官職まで送られており、名実共に「奥州の統治者」として認められています。
ド派手なパフォーマンスで知られる伊達政宗ですが、交渉事に長けていた人だったのでしょうね。

・伊達政宗の「天下を奪う良い秘策」

徳川家との関係を深める一方で、伊達政宗は最後まで野心を捨てなかった人物としても知られています。
伊達政宗はちょうとこの時期、独自にイスパニア(スペイン)と交渉しており、その技術援助を受けて西洋の大型帆船「ガレオン級」の船を建造、支倉常長という人をヨーロッパに派遣しています。
船の建造は極秘裏に短期間に行われ、参考資料はほとんど焼却されたようで、結局イスパニアとの交渉は失敗に終わったのですが、「伊達政宗が何を考え、何を交渉していたのか」は謎のままとなっています。

なお、徳川家康もオランダの船団に加わってやって来たイギリス人の航海士「ウィリアム・アダムス(三浦按針)」という人を参謀にしており、大型船を建造してアジア諸国やイスパニアに使者を出しています。
ただ、イギリス・オランダとイスパニアは当時激しく争っていた敵国であり、「オランダ経由で来たイギリス人」を参謀にしていた影響で、徳川幕府はイスパニアとはあまり交渉していませんでした。
イスパニアが「キリスト(カトリック)教国」だったことも影響していたようで、そこで伊達家はイスパニアとの親好を持とうとした、という事のようです。

まあ、ドラマの伊達政宗の「天下を奪う秘策」というセリフが、そこまで考えてのものだったのかは解りませんけどね。

・毛利輝元の「もっと敢然と動いてれば」「大阪城を明け渡さなければ」

「関ヶ原の戦い」の回でも少し説明しましたが、毛利輝元は西軍の「総大将」でありながら、関ヶ原の戦いで積極的に動いていませんでした
戦場には配下の「毛利秀元」を派遣して自身は大阪城にいたままでしたし、関ヶ原で西軍が敗れた報告を聞くと、大坂城を盾にして徹底抗戦を訴える毛利秀元や、九州から西軍のためにやってきた「立花宗茂」の説得も聞かず、さっさと大阪城を退去してしまいます。
これは家臣の「吉川広家」が徳川家康に通じており、彼が「毛利家の領地は補償する」という約束を取り付けていたからでしたが、その約束は無視され、毛利家は大幅に領地を減らされてしまいました。

歴史に IF は付きもの・・・ 今でも「あの時、あの人がああしていたら・・・」というのは良く語られます。
毛利輝元のシーンは、そんな IF を語ったシーンだったと言えますね。


○ 各武将の現時点の所属

 ●上杉家(西軍)
  ・上杉景勝米沢で上杉家を運営
  ・直江兼続米沢や京都で政務史実では本多家を通じて徳川家との関係を強化
   ・志駄義秀(直江兼続の配下)
   ・色部与三郎(直江兼続の配下)
   ・直江景明(竹松から改名。兼続の子。成長して兼続の配下に
  ・大国実頼(上杉家から退去。高野山で謹慎中)
  
  ・上田衆同僚
   ・泉沢久秀(上杉家の重臣、現在は兼続の配下)
   ・桜井晴吉(ドラマでは半士半農の「原方衆」を率いている
   ・山岸尚家(上杉家の重臣になっている)
   ・甘糟景継(上杉家の重臣、現在は兼続の配下)

   ・お船(景勝の子「玉丸」を養育中

    ・お貞(直江兼続の妹、色部与三郎の妻。史実での名は不明)

 ●元・西軍
  ○五大老と大名
   ・毛利輝元(久々に登場。すでに隠居している
    ・毛利秀元(セリフなし。輝元から領地を分け与えられ小大名に)
   ×真田昌幸1611年、高野山にて病死
    ・真田幸村(高野山に蟄居中)
   ・長宗我部盛親(セリフなし。トラブルで領地を失い浪人)

  ○豊臣家
   ・豊臣秀頼(家康の孫「千姫」を嫁にする。豊臣家の主君
   ・淀(徳川幕府に臣従しない姿勢を見せ、秀頼を天下の主と主張

    ・千姫(初登場、徳川秀忠の娘、家康の孫。豊臣秀頼に嫁ぐ

 ●元・東軍
  ○徳川家
   ・徳川家康隠居したが「大御所政治」を行って幕府に指示をしている
    ・徳川秀忠(二代目の将軍に就任。でも実権は家康のまま
   ・本多正信(息子の本多政重が直江家を出奔するが、直江家との関係は続いている)
    ・本多正純幕府内で政敵を葬りつつ、対豊臣の計画を練っている
   ×榊原康政1606年、病死
   ・遠山康光(史実ではすでに死亡している。ドラマでは兼続のライバル

  ○武断派
   ・福島正則徳川家の要請を飲むよう、淀を説得している
   ×加藤清正淀を説得し家康と秀頼の会見を成功させるが、その後急死
   ・黒田長政(筑前(福島)の大名になっている)
   ・藤堂高虎史実では江戸城を改築、豊臣家を包囲するよう城を造り、諜報活動も行う

  ○その他の大名/人物
   ・伊達政宗徳川家との親好を深めつつ、ガレオン船を作りイスパニアに使者派遣
    ・片倉景綱
   ・前田利長(史実では直江政重が仕官してきている
    ・本多政重(名を戻す。直江家を出て、前田家に仕官

   ・北政所(徳川家の要請を飲むよう、淀を説得している

さすがに10年経ったので、何人かは病死しています。
竹丸は「直江景明」に改名、また「千姫」が初登場しました。

やや余談ですが・・・ 「大坂の陣」が起こった経緯については、よく「徳川家康が天下統一したくて、豊臣家が邪魔だったから」の一言で済ませてしまう場合が多いです。
今回の天地人はまだ淀のシーンがあったのでマシでしたが、「世界征服のため邪魔者は消した」の一言で終わってしまうような歴史本やら雑記やらは本当に多いです。
実際には、幕府が出来て大阪の陣に至るまで10年以上も経っている訳ですから、長い交渉などがあった訳で、単に「邪魔だから潰した」というのは結果的にそうなったにせよ、話としては短絡的すぎで以前から気になっていました。

結局は家康を含め、誰もが「豊臣家には存続して欲しい。ただし平和的かつ従属的に」と思っていたようです。
「大坂の陣」に至る経緯が単純なものではなかったことを知る機会になれば・・・ と思います。


○ 天地人紀行 第四十五回

・石川県 金沢市
・金沢城公園
・長町武家屋敷跡
・本多家屋敷跡
・松風閣庭園(旧本多家庭園、北陸放送会館内)
・大乘寺

天地人紀行 第四十五回

これまでの天地人紀行の名所、全マップ

天地人 第四十四回 「哀しみの花嫁」

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直江兼続の娘達が退場する回。
一方で直江家の養子となった「直江政重」がようやく登場となり、「関ヶ原」後の直江家の様子が描かれています。
二代目の将軍となる「徳川秀忠」も登場し、話が「戦国時代の後」にさしかかって来たのが伺えますね。

直江家の中の話がメインであったため、歴史的な動きはほとんどありませんが、次回からは「大阪の陣」に話が移っていくようです。


○ 今回の時期 1604年8月 ってどんな頃?

・「徳川幕府(江戸幕府)」が成立してから約1年後
・江戸では城下町の大開発が行われている
・幕府からの政令が次々と発表され、国作りが本格化している頃
・三代将軍となる「徳川家光」が誕生した頃


戦国時代が終わろうとしている時期ですね。
幕府による政治が機能しはじめ、次々と新しい体制や政令が整えられています。
町や村の制度の改革や、主要街道の整備など、これまで後回しにされていた事柄も次々と進められていました。
一方で徳川幕府が成立し、さらに機能し始めている事で、「豊臣家」の権威はますます低下し続けている状況です。


○ 初登場「本多政重」ってどんな人?

直江兼続の娘「お松」と結婚した本多正信の次男「本多政重」。
ドラマではやたら無愛想な人になっていました。 相変わらず人物表現が極端ですね・・・ ^^;
見た目がみんな似てるので、その方が解りやすくはあるけど。

オープニングで語られていたように、本多政重は主君を次々と変えており、そのため「本多正信の間者説」も存在します。
徳川家康の子「徳川秀忠」の乳母の子を斬るというトラブルを起こし、徳川家を出奔(退去)。
そして「関ヶ原の戦い」で西軍として戦った、大谷吉継宇喜多秀家などの武将に仕えています。
関ヶ原の戦いに西軍として参加していたのは、このためです。

その後は福島正則前田利長前田利家の子)に仕えていますが、次々と士官先が見つかったのは、武勇に優れていると評判になっていたためのようです。
本多正信の次男」なので、その点も影響したかもしれません。
でもドラマでは、「本多正信の間者説」が採用されているようですね。

その後、直江兼続からの要請もあって、本多正信との協議の結果、直江家に養子に入る事になります。
当時は有力武将の次男・三男が、他の大名家や重臣の家に養子に出されるのは良くある事でした。
婚姻によって親戚関係となり関係を強化する狙いや、跡継ぎ争いの火種を事前に防止しておく、逆に跡継ぎ不在の家の存続のために養子に入る、などの理由があります。

ドラマでは「直江勝吉」と改名していますが、普通この名前で呼ばれることは、ほとんどありません。
この辺りは、今後ドラマでも描かれることになると思います・・・


○ さらに初登場「徳川秀忠」って?

徳川家康の子、そして徳川幕府の二代目の将軍です。 かなり有名な人ですね。
ただ、この人はあまり世間の評価は良くありません。

関ヶ原の戦い」の際、3万8千に及ぶ軍勢を率いていながら、兵力 2500 の真田昌幸のいる城(上田城)を攻め落とすことが出来ず、大損害を出した上に、上田城に固執しすぎて「関ヶ原の戦い」の本戦にも参加できませんでした。
これは一歩間違えば、東軍の敗北に繋がっていた大失敗です。

さらに後の「大阪の陣」では、このことがトラウマになっていたのか、今度は大阪まで超スピードで大爆走!
着いた時には軍勢はクタクタで、まともに戦える状態ではなくなっており、またもや家康から大目玉を食らっています。

政治的にも「徳川家康」という存在があまりに大きかったため、その影に隠れていて、家康が存命中の間は目立った事が出来ませんでした。
ただ誠実な人柄で、「家康の影で二代目の将軍に就任する」という役割においては非常に向いていた人だったとも言われており、初期の徳川幕府の運営を軌道に乗せた人物と言えます。

父が偉大すぎるとどうしても比べられてしまうため、武田勝頼や北条氏政と同じで、やや損な役回りになっていたことは否めませんね。
まあこの人が「関ヶ原の戦い」の総大将をやってたら、非常に危なかった気もするけど。


○ 「お松」があっさり死んでたけど、本多家との縁組みはどうなったの?

直江兼続の子はみんな体が弱かったのか、長男の竹丸が病弱で、次女の「お梅」も幼くして病死してしまい、そして本多政重と結婚した「お松」もその翌年に病死してしまいます。

ただ、直江家と本多家の縁組みは政略的な意味合いも強かったため、それで解消されてしまうことはありませんでした。
本多政重(直江勝吉)は妻不在の状態で、そのまま直江家で暮らすことになります

お松はドラマでは「流行り病」で病死したことになっていましたが、記録がほとんどないようなので、実際にどういう理由で死んだのかは不明です。
当時はまだ医学が発達していませんでしたから、風邪などの流行り病で死ぬ人は多かったのですが、時期的に妊娠に関わる病気で死んだ可能性もあります。


○ 各武将の現時点の所属

 ●上杉家(西軍)
  ・上杉景勝長男が産まれ、直江家で養育中
  ・直江兼続本多正信の子「本多政重」と娘が結婚する
   ・志駄義秀(上杉家で政務中)
   ・色部与三郎(直江兼続の配下)
   ・直江勝吉(初登場、本多正信の次男「本多政重」が直江家に入り改名
  ・大国実頼(上杉家から退去。高野山で謹慎中)
  
  ・上田衆同僚
   ・泉沢久秀(上杉家の重臣、現在は兼続の配下)
   ・桜井晴吉(ドラマでは半士半農の「原方衆」を率いている
   ・山岸尚家(上杉家の重臣になっている)
   ・甘糟景継(上杉家の重臣、現在は兼続の配下)

   ・お船(娘に死なれてショック。景勝の子「玉丸」を養育中
    ・竹松(病弱。本多政重(直江勝吉)が兄となる
    ×お松本多政重と結婚するが、翌年に病死
    ×お梅あっさり病死。史実での名は不明

    ・玉丸(上杉景勝と側室の子。直江兼続とお船が養育中)

    ・お貞(直江兼続の妹、色部与三郎の妻。史実での名は不明)

 ●元・西軍
  ○五大老と大名
   ・毛利輝元(大幅減俸され一大名となっている)
    ・毛利秀元(セリフなし。輝元から領地を分け与えられ小大名に)
   ・真田昌幸(高野山に蟄居中)
    ・真田幸村(高野山に蟄居中)
   ・長宗我部盛親(セリフなし。トラブルで領地を失い浪人に)

  ○豊臣家
   ・豊臣秀頼(豊臣家の跡継ぎ。西軍敗戦で領地は大幅減少)
   ・淀(石田三成や豊臣五奉行の消滅で、独裁的な権力を持ってしまう)

 ●元・東軍
  ○徳川家
   ・徳川家康幕府政治を進めている。息子への将軍職継承を準備
    ・徳川秀忠(初登場、二代目の将軍になるように言われている
   ・本多正信息子の「本多政重」を直江家の養子にした
    ・本多正純本多正信の子で父と共に参謀になっている
   ・榊原康政史実では隠居。ドラマでは徳川家の重臣の一人
   ・遠山康光(史実ではすでに死亡している。ドラマでは兼続のライバル

  ○武断派
   ・福島正則(豊臣家を守りたい。家康の動向が気になっている)
   ・加藤清正(豊臣家と徳川家の取り次ぎを行う。福島正則を止める)
   ・黒田長政(筑前(福島)の大名になっている)
   ・藤堂高虎(伊予(愛媛)の大名になっている)

  ○その他の東軍
   ・伊達政宗ドラマでは直江兼続に会いに行ってた
    ・片倉景綱
   ・前田利長(加賀の大大名となっている)

   ・北政所(京都で情勢を見守っている)

本多政重と徳川秀忠が初登場。 また、追加し忘れていた本多正純を追加。
一方で直江兼続の2人の娘はどちらも退場です。
予告によると、次回は一気に「大阪の陣」になるようです。
でも大阪の陣って 1614 年の出来事。 今が 1604 年なんだから、一気に 10 年分もすっ飛ばすんでしょうか!?
ただ、この 10 年の間はすでに戦国時代とは言えない頃だし、1回分でもいいかもしれませんね・・・ 残り3回しかないし。

ドラマでは直江兼続と伊達政宗が米沢で会っていましたが、こういう話(もしくはモデルとなった話)があったのかどうかは、ちょっと不明です。
(少なくとも私は聞いたことがありません)
たぶんドラマの創作じゃないかなと思います。


○ 天地人紀行 第四十四回

・山形県 長井市/南陽市
・朝日軍道
・金剛峯寺
・總宮神社
・熊野大社

天地人紀行 第四十四回

これまでの天地人紀行の名所、全マップ



天地人 第四十三回 「実頼追放」

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直江兼続の弟「大国実頼」の上杉家追放が描かれる回。
直江家にとっての大事件ですね。 今回で実頼も退場でしょうか?
ただ、先に言っておきますが、史実の大国実頼の事件と、ドラマで描かれた内容は、大きく異なっていますので注意して下さい。
ドラマのものはかなりアレンジされています。

本多正信と直江兼続の交渉が進み、上杉家が徳川家へ接近。
この上杉家の「方針転換」に関する各人物の苦悩が表現された回と言えますね。


○ 景勝の側室が「玉丸」を生んだって言ってたけど・・・ そもそも側室って誰?

主要人物である上杉景勝の側室について、名前も出てこないというのは・・・
ストーリー上、「側室」というものをあまり表に出したくなかったのでしょうか?
まあ、すぐに死んでしまったので、人物像を描けるようなエピソードがある人ではありませんが・・・

上杉景勝の側室は「桂岩院」と言う名前だったようで、「四辻家」や「室町家」と呼ばれる偉いお公家さまの家柄の女性でした。
しかし景勝の子を産んだ後の産後の体調が良くなく、改善しないままわずか三ヶ月後に亡くなってしまいました

そのため、その子は直江兼続の妻「お船」が直江家で養育することになります。


○ 本多正信について改めて

直江兼続が養子縁組して頼ろうとしている「本多正信」。
この人に関しては以前も一度ご紹介しましたが、改めてここで詳しく説明しておきましょう。

本多正信は「家康のブレイン」とも呼ばれる徳川家の「参謀」です。
しかし若い頃の経歴は今ひとつ定かではありません。
もともと徳川家の家臣だったのですが、徳川家康が当時の本拠地の三河(愛知県東部)で「一向一揆」(一向宗という宗教の信者による一揆)を起こされた際に、一向宗を信仰していたため徳川家を退去して、一向一揆側として戦っています。

そのため、その後は一向宗の総本山である「本願寺」に所属したり、戦国の謀将として名高い「松永久秀」の配下になっていたりしたといいますが・・・ この頃の詳細は不明です。
近年は「松永久秀」の元にいたというのが有力視されているようで、松永久秀からも一目置かれていたようです。

その後、いつの頃からか徳川家に復帰しますが、復帰した時期は明確ではありません。
ともかく復帰後の本多正信は「鷹匠」(鷹狩りをする際の鷹を飼育する係)を歴て徳川家康の参謀となり、様々な助言を行っていました。

ただ、その発言は容赦のないものが多かったようで、家臣や同僚の処罰も平気で行い、他の徳川家の家臣からも恨まれていたようです
同族の本多重次本多忠勝からも「同じ本多だけどあいつとは関係ない!」と言われており、かなり嫌われていたことが解ります。
しかし徳川家康は本多正信を「友」と呼び、常に信頼していたため、自ら徳川家の汚れ役になっていたのではないかと言われています。
また、「出世して大身になった者は、妬まれる元になるので、俸禄を多く貰ってはいけない」と言い、少ない給料で、常に質素な生活をしていたと言います。

こうした人物像から、多くのドラマや小説では、家康の側で非道な謀略を進言する「悪役的な軍師」「ネガティブな参謀」として描かれるケースが多いです。

ただ、「天地人」では直江兼続が頼った人物であるため、単なる悪役にはなっていない、他の歴史ドラマとはちょっと違う扱いとなっていますね。

人物:本多正信


○ 本多正信の長男「本多正純」って?

本多正信の長男ですが、彼は直江兼続の娘「お松」と結婚する人物ではありません
兼続の娘との婚姻が予定されているのは本多正信の次男「本多政重」で、ドラマではちょっと解りにくかったのでご注意を。

本多正純は父の本多正信と共に、家康の参謀として活躍した人物です。
ただ、本多正信にも増して「ダーティーな謀略家」というイメージがあり、徳川幕府の初期に多くの政敵と対立、さらにあの手この手で政敵を葬って徳川幕府の中で本多親子の権力を確立していった人です。

さらに、「妬みを買うから多くの領地を貰ってはならない」という父・本多正信の遺言を無視し、多くの領地と権力を貰って裕福な生活をしていた大政治家でした。

しかし父の死後、次第に政敵「土井利勝」との政治闘争に押され気味になり、敵も多かった本多正純はついに「宇都宮城 釣天井事件」(自分の城に将軍暗殺のための罠を仕掛けた)という「将軍暗殺」の疑惑をかけられ、失脚してしまいます。

政治家に色々なタイプがいるのは、いつの世も変わりませんね。

人物:本多正純


○ 徳川家の家臣「榊原康政」って誰だっけ?

すでに何度か登場しているため初登場という訳ではありませんが、今回初めてまともなセリフがあり、人物名のテロップも表示されました。

「徳川四天王」と呼ばれる徳川家の主力武将の一人で、旗に「無」の一文字を掲げて戦った武将です。

ただ、ドラマで描かれた榊原康政と、史実の榊原康政は、全く違います
榊原康政は「関ヶ原の戦い」の後、上杉家が徳川家に謝罪する際の取り次ぎを頼まれており、上杉家の存続について口添えをしています。
そのため、今回のように「上杉家を滅ぼすための謀略」を口にするようなことは史実に反しています。

加えて、榊原康政は本多正信と対立関係にあり、この争いが徳川家の火種になる事を恐れ、「老臣が権力を争うのは亡国の兆し」と言い、幕府が設立された頃に重臣の立場から身を引いています
よって、あの場に本多正信と一緒にいることもおかしいです。

とは言え、あくまで天地人は「ドラマ」ですから、この辺はアレンジがあっても悪くはないでしょう。
ただし見ている側が、史実とごっちゃにしないよう気を付ける必要はありますね

人物:榊原康政


○ 大国実頼が「高野山へ追放」されてたけど、高野山って流刑地?

仏教の聖地「高野山」。
そこに行くと言うことは「僧侶になって俗世から身を引く」という意味があり、そのため戦国時代には流刑地の変わりのように使われていました
よって多くの武将が何かの処罰で「高野山で謹慎」というものを受けています。

ただ、高野山から戻ってきて再び武士や大名になった人も多く、刑罰としては重罪であるけど、処分としてはやや軽め、と言う形で使われていたようです。
ある意味、「厚生施設」や「刑務所」の代わりでもあったのかもしれません。

なお、上杉謙信は一度 戦国大名を嫌になり、全部捨てて高野山に行って出家しようとしました。
そのため上杉家は大騒ぎ! 家臣が「もう逆らいません」みたいな書状を書いて、懸命の説得をして連れ戻したという事があります。


○ 大国実頼が追放された事件、本当のところは?

ドラマの「大国実頼」が追放された事件と、史実のこの事件は、まったく展開が異なります。
ドラマのものはかなりオブラートに包んだ形になっていました。

大国実頼は、直江兼続が本多正信の子を直江家の養子にする事に、当初から反対していたようです。
しかし直江兼続は聞かず、本多正信の子との縁談を進めます。
ここまではドラマでも描かれていた通りです。

そしてこの後、直江兼続は本多正信の次男「本多政重」を迎えるために、京都に使者を派遣します。
ところが大国実頼は、この縁談を実力で止めようと、なんとこの使者を斬殺するという暴挙に出ます!
そして自ら高野山に逃走し、そのまま直江兼続の元には戻りませんでした。

結局、この事件があっても直江家と本多家の縁組みは行われ、大国実頼は上杉家に戻らなかったため、そのまま追放された形となります。

ドラマでは、さすがに「兼続の使者を襲って斬る」というのは過激すぎると判断されたのか、単に本多正信の面前で縁談を断る、という形にされていました。
また、実際には大国実頼が自ら高野山へ逃れたようですが、ドラマでは「高野山への追放」という処罰が下された形になっていました。

いずれにせよ、大国実頼は無理やり止めようとするほど、この縁談には反対だったようです。
どういう事情でそうなったのか正確なところは解りませんが、ドラマで語られていたように、最後まで徳川家に反発していたのかもしれません。


○ 各武将の現時点の所属

 ●上杉家(西軍)
  ・上杉景勝長男が産まれた。側室は産後に病死
  ・直江兼続本多正信の次男との縁談を進めるが、弟に反対される
   ・志駄義秀(上杉家で政務中)
   ・色部与三郎(直江兼続の配下)
  △大国実頼(直江家と本多家の縁組みを止めようとして失敗、高野山へ
  
  ・上田衆同僚
   ・泉沢久秀(上杉家の重臣、現在は兼続の配下
   ・桜井晴吉(ドラマでは半士半農の「原方衆」を率いている
   ・山岸尚家(上杉家の重臣になっている
   ・甘糟景継上杉家の重臣、現在は兼続の配下

   ・お船(上杉景勝の子を養育する事になる
    ・竹松(病弱。ドラマでは直江家を継げない事がショックだった)
    ・お松(本多正信の子との縁組みが進められている
    ・お梅(史実での名は不明)

    ・玉丸(初登場。上杉景勝と側室の子。直江兼続とお船が養育中

    ・お貞(直江兼続の妹、色部与三郎の妻。史実での名は不明)

 ●元・西軍
  ○五大老と大名
   ・毛利輝元(大幅減俸され一大名となっている)
    ・毛利秀元(セリフなし。輝元から領地を分け与えられ小大名に)
   ・真田昌幸(高野山に蟄居中)
    ・真田幸村高野山に蟄居中。ドラマでは大国実頼と会ってた
   ・長宗我部盛親(セリフなし。トラブルで領地を失い浪人に)

  ○豊臣家
   ・豊臣秀頼(豊臣家の跡継ぎ。西軍敗戦で領地は大幅減少)
   ・淀(石田三成や豊臣五奉行の消滅で、独裁的な権力を持ってしまう)

 ●元・東軍
  ○徳川家
   ・徳川家康幕府を開いて、幕府政治の基盤を作っている最中
   ・本多正信直江兼続から打診された養子縁組を進めている
   ・榊原康政史実では隠居。ドラマでは兼続に弟の処分を要請
   ・遠山康光(史実ではすでに死亡している。ドラマでは兼続のライバル)

  ○武断派
   ・福島正則豊臣家を守りたい。家康の動向が気になっている
   ・加藤清正(豊臣家と徳川家の取り次ぎを行う。福島正則を止める)
   ・黒田長政(筑前(福島)の大名になっている)
   ・藤堂高虎(伊予(愛媛)の大名になっている)

  ○その他の東軍
   ・伊達政宗仙台で政務を行っている
    ・片倉景綱
   ・前田利長(加賀(金沢)120万石の大大名となっている)

   ・北政所(京都で情勢を見守っている)

オープニングのテロップに「市川景清」の名がありましたが、これは天地人のドラマで創作された人物のようなので、リストには載せていません。
今回、榊原康政が直江兼続に弟の処分を強要していましたが、あれは天地人のドラマ展開を考えると、遠山康光の役割だった気がするのですが・・・
遠山康光について視聴者から何か言われたりしたんでしょうか?
でもあの役どころは正直、榊原康政がするべきものじゃないよなぁ。
時間が経ち、徐々に徳川周辺の登場人物も減ってきて、寂しくなってきましたね。


○ 天地人紀行 第四十三回

・和歌山県 高野町
・高野山
・金剛峯寺
・清浄心寺

これまでの天地人紀行の名所、全マップ

※今回は高野山と、荒野山の中の施設だけだったので、全名所マップのみ更新しています。



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