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時間が一気に進み、「関ヶ原の戦い」後の状況から「大坂の陣」へと至る過程が描かれる回ですが・・・
しかしストーリーの構成が最優先されており、「大坂の陣」に至る過程の大部分は省略されていたと言えます。
時代が移り変わっていく中で、「考えを変える者」と「変えない者」の差が表現されていた回でもありましたね。
時間の流れが早かった事もあり、初回から登場していた上杉謙信の姉「仙桃院」は今回でついに退場です。
さらに登場したばかりの「本多政重」こと直江勝吉もおそらく今回で降板、直江兼続の子「竹松」もこども店長から一気に青年になります。
天地人もいよいよ大詰め、残すところ後わずかですね。
○ 今回の時期 1605年3月 ってどんな頃?
・徳川家康が(名目上)隠居して、将軍職を息子の「徳川秀忠」に譲った頃
・これにより徳川家が将軍職を豊臣家に返す気がないことが示される
・これによりますます豊臣家の権威が落ちている頃
上記はあくまで、今回のドラマの「開始時」の話です。
今回はこれまで放映された「天地人」の中で、もっとも「時間の流れが早かった回」です!
実は今回だけで、約10年も経過しています!!
しかし10年も経っているのに、劇中で年月が進んだことを示すテロップが出なかったので、歴史に詳しくない人だとまさかそんなに経ってるとは思わなかったでしょう。
途中で「五年の月日が流れ・・・」というセリフが一言あったのみでしたからね。
演出側も、時間の流れをあまり表現したくなかったのかもしれません。
「その間に何もなかったのか?」という話になってしまいますから・・・
○ 徳川家康が息子に将軍を譲ったの? じゃあもう家康はただの隠居ジジイ?
徳川家康は江戸に「幕府」を開いて、わずか2年で隠居してしまいます。
しかし隠居と言っても実際には大きな権力を持っていたままであり、まだまだ政治に口出ししていました。
むしろ徳川家康は「駿府城」という自分の城を新たに作らせ、そこに重臣を集めて幕府に様々な指示を出していました。
つまり実権は徳川家康が持っていたままだった訳で、これを「大御所政治」と呼びます。
今でも、会長の方が社長より権力を持っていて会社の運営にも口出ししている場合や、古参の大物政治家が実権を握ったままになっているような場合には、「大御所政治」と呼ばれることが多いですね。
家康がこの「大御所政治」の体制にしたのは、幕府の将軍職を自分の息子に継がせる、つまり徳川家の世襲であると公表することで、豊臣家に権力を返す気がないこと、天下の主は徳川家であると言う事を知らしめるためであったようです。
ちょうどこの前年、二代目の将軍となった「徳川秀忠」には息子が産まれていました。 後の三代将軍「徳川家光」です。
家康→秀忠→家光 という世襲の形がハッキリ見えたことも、この早期の隠居に影響したと思われます。
ただこういう理由がなくても、戦国時代に「主君が息子に早い段階で家を継がせて、自分は大御所として運営に参加する」というのは、非常に一般的な事でした。
上杉謙信が死んで、上杉家で「御館の乱」が起こったのを見てもわかる通り、早く跡継ぎの体制を整えておかないと「跡継ぎ争い」が起こる危険があります。
戦国時代はいつ死ぬか解らない時代。 出来たばかりの幕府に一刻も早く世襲の形を作り上げたかった、というのが本音だったと思われます。
○ 豊臣秀頼に嫁いだ徳川家康の孫娘「千姫」って?
今回初登場、大坂の陣の1つのポイントとなった姫が、この「千姫」です。
父は二代目の将軍「徳川秀忠」、母は浅井長政とお市の娘「浅井三姉妹」の一人である「江」です。
「江」は、2011 年の NHK 大河ドラマ「江 〜姫たちの戦国〜」で主人公となる人物です。
千姫はわずか7歳で、家康の命令で豊臣秀頼に嫁ぎます。俗に言う「政略結婚」です。
二代目の将軍となる徳川秀忠の娘で、家康の孫娘でもある彼女を豊臣家に嫁がせる事で、徳川家康はなんとか豊臣家を懐柔し、交渉で臣従させたいと考えていたようです。
豊臣秀頼と千姫の仲は非常に良かったと言われており、淀と千姫の仲も当初は悪くなかったと言われています。
ただ、秀頼と千姫の間に子供が出来ていないため、淀により物心がついた頃にはすでに遠ざけられていた、という説も有力なようです。
この辺りは当時の大坂城の内情を示すものが少ないため、詳細はよく解っていません。
母「お市」の美貌を受け継いだと言われる美人で、「大坂の陣」でドラマチックな行動・境遇にあったこともあり、多くの小説やドラマで取り上げられている人ですね。
○ 今回は約10年経過!? 「大坂の陣」に至った経緯って何なの?
ドラマでは「大阪の陣」に至る過程は「最初と最後の部分」だけしか描かれていませんでした。
とは言え、もっとも重要な部分・・・ すなわち、徳川家康が将軍職を息子の「徳川秀忠」に譲って、豊臣家に政権を返すつもりがないのを示したこと、
「淀」が意地でも徳川家に従うつもりがなく、我が子の豊臣秀頼こそが天下の主だと主張し続けていたこと、
徳川家康が豊臣家が作った鐘に「国家安康」と書かれているのを見て、「家康の文字を分けて呪っているものだ!」という「言いがかり」を付けたと言う事、
この3点は表現されていました。
しかし、なにせ実際には約10年も経っているのです。
徳川家康が将軍職を息子の「秀忠」に譲って、それに「淀」が怒って、だから家康が「言いがかりを付けた」では、一見繋がりそうで、ホントは繋がりません。
では一体、この期間に何があったのか・・・
「大坂の陣」に至る流れをもう少し詳しく説明すると、以下のようになります。
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・「関ヶ原の戦い」で徳川家康が勝ち、石田三成が負ける。(1600年)
・石田三成ら大坂の首脳陣がいなくなり、豊臣秀頼もまだ幼かったため、その母である「淀」に権力が集中してしまう。(1600年)
・豊臣家は大幅に領地減少。西軍側の多くの大名家も領地を没収され、上杉家も領地を大幅に減らされ米沢に移転する。(1600年〜1601年)
・徳川家康が朝廷から「征夷大将軍」という役職(官職)を与えられ、江戸に「徳川幕府」を開く。(1603年)
・徳川家康、娘の「千姫」を豊臣秀頼に嫁がせる。つまり豊臣家への懐柔策を取る。(1603年)
・年始の挨拶で多くの大名が徳川家康の元を訪れるが、豊臣家に最初に挨拶をした大名はいなかった。(1604年)
・幕府政治が機能し始めることにより、豊臣家の権威がさらに衰退していく。直江家では本多政重が養子入り。(1604年)
・徳川家康が隠居、将軍職を息子の「徳川秀忠」に譲る。これにより徳川家が「将軍」を務め続ける事がはっきりし、豊臣家に権威を返す気がないことが示される。(1605年)
・徳川家康が豊臣秀頼に新しい将軍への挨拶を要請。しかし淀はこれを拒否し、「豊臣家は臣従するつもりはない、強制するなら秀頼と切腹する」と、徳川家に対する態度を明確にする。 家康はこれを穏便に済ませるが、諸国に緊張が走り、京都・大坂では合戦に備え逃げ出す人が多く出る。(1605年)
・家康の新しい城「駿府城(静岡県静岡市の城)」の大改修開始。豊臣家もこの改修を要請され、これに応じる。(1606年)
・駿府城が完成。徳川家康はそこに移り、なおも政治に関与する。俗に言う「大御所政治」の体制が出来る。(1607年)
・徳川家と豊臣家の交渉が続いていたと言われているが、進展なし。 上杉謙信の姉「仙桃院(仙洞院、綾)」はこの頃に病死している。(1608年〜1610年)
・新しい天皇が即位する事を契機に、徳川家康が天皇への挨拶を豊臣秀頼に要請。同時に、家康と秀頼の会見も要請する。これに淀は反対するが、加藤清正、福島正則、高台院(秀吉の妻。北政所、ねね)などが説得を行う。秀頼自身が会見を望んでいたとも言われている。(1611年)
・徳川家康と豊臣秀頼が京都で会見。家康は立派になった秀頼を見て、「親離れや淀の説得を期待した」とも「その存在に危機感を持った」とも言われている。会見自体は和やかに終わったという。(1611年)
・会見の成功に尽力し、秀頼の護衛も行っていた加藤清正が、帰国中に船上で病となり急死。なお、豊臣家と徳川家の双方に近く、加藤清正と共に会見で秀頼を護衛していた浅野長政も同時期に病死している。(1611年)
・直江家では養子になっていた本多政重が直江家を出奔(退去)、前田家に仕官する。(1611年〜1612年)
・豊臣家はこの頃、前田家に援助を要請していた模様。 徳川家は各地の大名家から「幕府に背かない」という内容の誓詞(約束)の提出を要請している。(1612年)
・前田家、領地の返上を幕府から迫られたり、謀反の疑いをかけられたりするが、本多政重が交渉役を務め、この危機を乗り切る。(1612年〜1613年)
・豊臣秀頼が朝廷(天皇家)から、より上位の官位を得る。 この時の朝廷への要請は幕府の定めた法令を無視して行われたものだった。 また、この頃から豊臣家は浪人の雇用や兵糧の蓄えなどを積極的に始める。(1612〜1613年頃)
・幕府は豊臣家に対し、各地の寺院の修繕などを要請する。豊臣家はこれに従う。幕府側も武器の調達などを開始する。(1612〜1614年)
・前田利長(前田利家の子)、池田輝政や浅野幸長など、豊臣家に近い高齢な大名の病死が続く。(1612年〜1614年)
・徳川家康、豊臣家が「方広寺」というお寺に作った「鐘」に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれているのを見て、「家康の字を分けて呪い、豊臣が主君になる意味だ」という「いいがかり」を付ける。(1614年)
・豊臣家、家臣の片桐且元などを派遣して家康に弁明。 徳川家康は「秀頼の臣従、淀を江戸へ人質に出す、国替え(移転)する」の3つの条件のどれかを承諾するよう返答。 豊臣側はこれを拒否。(1614年)
・豊臣家で和平派だった片桐且元、暗殺されそうになり豊臣家を脱出。 豊臣家は合戦の準備を開始し、徳川家康は豊臣家討伐を宣言。(1614年)
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以上が「大坂の陣」に至る経緯です。
年表を見てもわかる通り、重要な出来事は1605年の「徳川秀忠の将軍就任と淀の挨拶拒否」、1611年の「徳川家康と豊臣秀頼の会見」、1613年頃の「豊臣家が幕府を無視して官位を要請、豊臣と徳川の双方が合戦準備を開始」の3つですね。
淀が徳川幕府に従わない姿勢を表面化させてから、徳川家康と豊臣秀頼が会見を行うまで、6年も間があることがポイントです。
1605年に淀が反徳川の姿勢を見せた時、合戦になると各地が緊張状態になったのですが、徳川家康はこの時は事を穏便に済ませました。
この時点では、なんとか豊臣家を交渉で臣従させたいと考えていたようです。
しかし6年も交渉しても結果が出ず、1611年に何とか秀頼と家康の会見まで持ち込んだものの・・・ そこから両者の関係は急速に悪化してしまいます。
この急速な悪化は、一般には「家康が立派な秀頼を見て危機感を抱いたから」と言われることが多いのですが、豊臣家の実権は相変わらず「淀」が握っていたため、「最後の手段であった会見も、淀の存在や考えを変えることが出来なかったから」という見方の方が自然かもしれません。
また、この頃から豊臣家の方も急に軍備を始めているので、「豊臣家が焦り始めた」という見方が一般的なようです。
焦り始めた理由は正確には解りませんが、豊臣家に近い有力大名の高齢化や病死が進んでいたことや、徳川幕府の体制が年々強固になっていった事など、理由はいくつも考えられます。
なお、ドラマの冒頭の解説で「家康が秀頼の関白を剥奪」という説明がありましたが、これについては詳細がよくわかりませんでした・・・
家康の城「駿府城」の工事を豊臣家にも要請したのは、確かに「豊臣家が他の大名家と同列に扱われた」事を示すものですが、緊張が走っていた時期だったことと、これがあってから大阪の陣が起こるまでに8年、会見までも5年あるので、逆に融和策だったのではないかという見方もあります。
いずれにせよ淀にとっては面白くなかったと思いますが。
冒頭の説明だけ見ると、駿府城の工事が引き金のように思ってしまいがちですが、実際には間にかなり長い年月が入っているというのに注意しましょう。
○ いきなり「直江勝吉(本多政重)」が直江家を出て行ったけど、なんで?
ドラマでは呼び出されたような感じで直江家を出て行った本多政重。
実際には、彼は「出奔」(勝手に出て行ってしまう事)だったようです。
なぜ彼がいきなり上杉家を出奔してしまったのか・・・ その理由は不明です。
ドラマでは出てきませんでしたが、彼は最初の妻(直江兼続の娘、お松)に死なれた4年後、直江兼続の弟「大国実頼」が養育していた娘「お虎」と再婚しています。
この時には本多家(本多正信の本家)から、お祝いとして幕府に収める税金の免除なども受けています。
しかしその2年後・・・ 直江家から出ていってしまい、当時は120万石の大大名だった「前田家」に仕官しています。
彼は直江家に来る以前は前田家にいた人なので、前田家に戻った、とも言えます。
そして前田家に再仕官した後、妻(お虎)と多くの直江家の家臣が、彼を追って前田家に行っています。
出奔した際にはその要因が一緒に記録に残っている事が多いのですが、彼についてはどうも不明なようです。
ケンカ別れなのか何なのか? 家臣も前田家に行っているので財政的な問題だったのか? それとも何かの交渉や計画があったのか?
詳しいことが解らないので、何とも言えませんね。
ドラマで描かれていたように、直江兼続に実子がいて、病弱だったけど無事に成長したので、自ら出て行くことにした、という説も確かにあるようです。
その後、彼は前田家が徳川幕府から領地(越中)の召し上げをされそうになった時や、兄の「本多正純」から謀反の疑いをかけられたりした時に、懸命の弁明を行って前田家の危機を救い、家老にまで出世しています。
前田家は当時、ちょうど豊臣家に頼られていた時期で、重要なポイントにあった大名家だったので・・・
そこに急に出奔したあたりも、彼が「間者」と言われる要因の1つかもしれません。
○ 「国家安康」は家康の字を分けて呪ってるって、本当?
徳川家康が豊臣家に「言いがかり」を付けた、有名な「方広寺鐘銘事件」。
豊臣家が「方広寺」というお寺に収めた鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれているのを見て、「これは『家康』の字を2つに分けて呪い、さらに『豊臣』が主君になって栄えるという意味だ!」と言いがかりを付け、豊臣家に釈明を求めた事件です。
「大坂の陣」の直接のきっかけになった事件として知られていますね。
ドラマではこの「言いがかり」を直江兼続のライバル役をしている「遠山康光」が進言していましたが、史実でこれを言いだしたのは、後に「黒衣の宰相」と呼ばれる徳川家康の参謀の僧侶「以心崇伝(金地院崇伝)」です。
彼はそれ以前から、「豊臣家に各地の寺院の修繕を命じて、その資金力を削ぐ」という案を提示していました。
その寺院の修繕で作られた鐘の文章にこのイチャモンを付けた訳ですから、まさに豊臣家は以心崇伝の術中にハマったとも言えます。
また、これを元に豊臣家を攻めようという計画を作ったのは、本多正信の子にして本多政重の兄「本多正純」であったようです。
が、そもそもこんな言いがかり、誰の目にも強引な訳で、最初から「ムチャな言いがかりで相手を怒らせる」という考えもあったのかもしれません。
これに対し豊臣家は、「片桐且元」と「大蔵卿の局」という2人の使者を派遣し、弁明を行います。
ところがこの2人に対し家康は、大蔵卿の局には「ぜんぜん問題ないよ〜ん」と言い、片桐且元に対しては「ぜってー許せねー! 臣従するか、淀を人質に出すか、別の場所に引っ越すか、どれかを選べ!」と返答。
そのため豊臣側は「大蔵卿の局」の報告を信用し、片桐且元に「徳川家康と結託しているのではないか」という疑惑の目を向けてしまいます。
結果、片桐且元は命を狙われてしまい、豊臣家から脱出。
そしてこの事を徳川家はさらに非難し、豊臣家は合戦が不可避であることを知って防戦体制を固め、徳川家康はついに豊臣討伐を宣言します。
片桐且元の件も徳川家康の術中にハマったと言えますが、片桐且元はその後に徳川家康の元に逃れ、大阪城攻めでも様々なアドバイスを行っています。
単にハメられたのなら家康の元に行くとは思えないため、これらが実際に家康の「謀略」だったのかは解りません。
いずれにせよ、豊臣家はもう徳川側が「本気で合戦をする気になった」時点で、戦いは避けられない状況だったと言えます。
そして時代は、戦国の終幕「大坂 冬の陣・夏の陣」に向かうこととなります・・・
○ ちょこっと解説
・伊達政宗が徳川幕府に深く入り込んでいた
伊達政宗は徳川家康と仲が良かったことが知られていますが、徳川秀忠とも非常に仲が良かったようです。
そのためか、徳川秀忠から徳川家の元の名字「松平」の姓まで送られています。
同時に東北地方を収める意味を持つ官職まで送られており、名実共に「奥州の統治者」として認められています。
ド派手なパフォーマンスで知られる伊達政宗ですが、交渉事に長けていた人だったのでしょうね。
・伊達政宗の「天下を奪う良い秘策」
徳川家との関係を深める一方で、伊達政宗は最後まで野心を捨てなかった人物としても知られています。
伊達政宗はちょうとこの時期、独自にイスパニア(スペイン)と交渉しており、その技術援助を受けて西洋の大型帆船「ガレオン級」の船を建造、支倉常長という人をヨーロッパに派遣しています。
船の建造は極秘裏に短期間に行われ、参考資料はほとんど焼却されたようで、結局イスパニアとの交渉は失敗に終わったのですが、「伊達政宗が何を考え、何を交渉していたのか」は謎のままとなっています。
なお、徳川家康もオランダの船団に加わってやって来たイギリス人の航海士「ウィリアム・アダムス(三浦按針)」という人を参謀にしており、大型船を建造してアジア諸国やイスパニアに使者を出しています。
ただ、イギリス・オランダとイスパニアは当時激しく争っていた敵国であり、「オランダ経由で来たイギリス人」を参謀にしていた影響で、徳川幕府はイスパニアとはあまり交渉していませんでした。
イスパニアが「キリスト(カトリック)教国」だったことも影響していたようで、そこで伊達家はイスパニアとの親好を持とうとした、という事のようです。
まあ、ドラマの伊達政宗の「天下を奪う秘策」というセリフが、そこまで考えてのものだったのかは解りませんけどね。
・毛利輝元の「もっと敢然と動いてれば」「大阪城を明け渡さなければ」
「関ヶ原の戦い」の回でも少し説明しましたが、毛利輝元は西軍の「総大将」でありながら、関ヶ原の戦いで積極的に動いていませんでした。
戦場には配下の「毛利秀元」を派遣して自身は大阪城にいたままでしたし、関ヶ原で西軍が敗れた報告を聞くと、大坂城を盾にして徹底抗戦を訴える毛利秀元や、九州から西軍のためにやってきた「立花宗茂」の説得も聞かず、さっさと大阪城を退去してしまいます。
これは家臣の「吉川広家」が徳川家康に通じており、彼が「毛利家の領地は補償する」という約束を取り付けていたからでしたが、その約束は無視され、毛利家は大幅に領地を減らされてしまいました。
歴史に IF は付きもの・・・ 今でも「あの時、あの人がああしていたら・・・」というのは良く語られます。
毛利輝元のシーンは、そんな IF を語ったシーンだったと言えますね。
○ 各武将の現時点の所属
●上杉家(西軍)
・上杉景勝(米沢で上杉家を運営)
・直江兼続(米沢や京都で政務。史実では本多家を通じて徳川家との関係を強化)
・志駄義秀(直江兼続の配下)
・色部与三郎(直江兼続の配下)
・直江景明(竹松から改名。兼続の子。成長して兼続の配下に)
・大国実頼(上杉家から退去。高野山で謹慎中)
・上田衆同僚
・泉沢久秀(上杉家の重臣、現在は兼続の配下)
・桜井晴吉(ドラマでは半士半農の「原方衆」を率いている)
・山岸尚家(上杉家の重臣になっている)
・甘糟景継(上杉家の重臣、現在は兼続の配下)
・お船(景勝の子「玉丸」を養育中)
・お貞(直江兼続の妹、色部与三郎の妻。史実での名は不明)
●元・西軍
○五大老と大名
・毛利輝元(久々に登場。すでに隠居している)
・毛利秀元(セリフなし。輝元から領地を分け与えられ小大名に)
×真田昌幸(1611年、高野山にて病死)
・真田幸村(高野山に蟄居中)
・長宗我部盛親(セリフなし。トラブルで領地を失い浪人)
○豊臣家
・豊臣秀頼(家康の孫「千姫」を嫁にする。豊臣家の主君)
・淀(徳川幕府に臣従しない姿勢を見せ、秀頼を天下の主と主張)
・千姫(初登場、徳川秀忠の娘、家康の孫。豊臣秀頼に嫁ぐ)
●元・東軍
○徳川家
・徳川家康(隠居したが「大御所政治」を行って幕府に指示をしている)
・徳川秀忠(二代目の将軍に就任。でも実権は家康のまま)
・本多正信(息子の本多政重が直江家を出奔するが、直江家との関係は続いている)
・本多正純(幕府内で政敵を葬りつつ、対豊臣の計画を練っている)
×榊原康政(1606年、病死)
・遠山康光(史実ではすでに死亡している。ドラマでは兼続のライバル)
○武断派
・福島正則(徳川家の要請を飲むよう、淀を説得している)
×加藤清正(淀を説得し家康と秀頼の会見を成功させるが、その後急死)
・黒田長政(筑前(福島)の大名になっている)
・藤堂高虎(史実では江戸城を改築、豊臣家を包囲するよう城を造り、諜報活動も行う)
○その他の大名/人物
・伊達政宗(徳川家との親好を深めつつ、ガレオン船を作りイスパニアに使者派遣)
・片倉景綱
・前田利長(史実では直江政重が仕官してきている)
・本多政重(名を戻す。直江家を出て、前田家に仕官)
・北政所(徳川家の要請を飲むよう、淀を説得している)
さすがに10年経ったので、何人かは病死しています。
竹丸は「直江景明」に改名、また「千姫」が初登場しました。
やや余談ですが・・・ 「大坂の陣」が起こった経緯については、よく「徳川家康が天下統一したくて、豊臣家が邪魔だったから」の一言で済ませてしまう場合が多いです。
今回の天地人はまだ淀のシーンがあったのでマシでしたが、「世界征服のため邪魔者は消した」の一言で終わってしまうような歴史本やら雑記やらは本当に多いです。
実際には、幕府が出来て大阪の陣に至るまで10年以上も経っている訳ですから、長い交渉などがあった訳で、単に「邪魔だから潰した」というのは結果的にそうなったにせよ、話としては短絡的すぎで以前から気になっていました。
結局は家康を含め、誰もが「豊臣家には存続して欲しい。ただし平和的かつ従属的に」と思っていたようです。
「大坂の陣」に至る経緯が単純なものではなかったことを知る機会になれば・・・ と思います。
○ 天地人紀行 第四十五回
・石川県 金沢市
・金沢城公園
・長町武家屋敷跡
・本多家屋敷跡
・松風閣庭園(旧本多家庭園、北陸放送会館内)
・大乘寺
・天地人紀行 第四十五回
・これまでの天地人紀行の名所、全マップ













