天地人 最終回 「愛を掲げよ」

いよいよ最終回となった NHK 大河ドラマ 「天地人」。
歴史的な動きは前回の「大坂の陣」による豊臣家滅亡で終わり、今回は直江家のその後と徳川家康の死が描かれます。
そして直江兼続も、その生涯を終えます。
ドラマの「エピローグ」と言える内容ですね。


○ 直江景明があっさり死んでたけど、なんで?

これはもう「元々病弱だったから」としか言いようがありません。
ただ、直江景明は「大坂の陣」にも参陣し、その戦いぶりを称えられて二代将軍・徳川秀忠から感状(感謝状)も与えられています。
感状の授与については「直江家の手前」というのもあったかもしれませんが、少なくともこの時点では直江景明は元気だったと思われます。

しかし、その約半年後にあっさり病死してしまいます・・・
まだ医術も進歩していない時代ですから、流行り病であっさり死ぬこともありますが、やはり体が弱かったのでしょうね。


○ 泉沢久秀も息子を大坂の陣で亡くしたって言ってたけど?

天地人のドラマの中で、直江兼続が泉沢久秀にそう言っていましたが・・・
泉沢久秀については米沢移転後の記録が少なく、詳細が解っていません。
移転前までは上杉家の重臣として高い地位にあったようですが、移転後は兼続の配下となっており、急に記録にも出てこなくなるようです。
天地人のドラマを作成するにあたり、過去の記録が再調査されていると思いますので、泉沢久秀の息子に関する情報が出てきたのかもしれませんが・・・ 実際のところは不明です。

ドラマでは過去に泉沢久秀の子が登場していますが、「泉沢家」は泉沢久秀の死後に跡継ぎがいないことで断絶となっていますから、その事と辻褄を合わせたのではないかなと思います。


○ 徳川家康も死んでたけど、老衰?

徳川家康「大坂・夏の陣」の約1年後に病死しています。

徳川家康はよく「テンプラにあたって死んだ」と言われています。
ただ、鯛のテンプラを食べ過ぎて食中毒を起こしてから、実際に死ぬまで約3ヶ月あるため、テンプラが直接の死因ではなかったようです。
しかしテンプラにあたってから体調が悪くなる事が増えているため、やはりテンプラが体調悪化の最初の原因だった可能性も高いです。

徳川家康が死んだのは 1616 年の4月。
ちょうどその前の月に直江兼続が見舞いに行っています。
ドラマのような対面シーンも、おそらくあったでしょうね。


○ 直江兼続が作った「禅林文庫」って?

直江兼続が徳川家康の死の2年後、1618 年に私財を投じて作った学問所です。
禅林寺」というお寺に書物を集め、当時の最高教育施設だった「足利学校」で学んだ和尚を先生として招いて創設した、米沢最初の本格的な学問所だったようですね。

後にそれは上杉家の名君として知られる「上杉鷹山」という人により作られた「興譲館」という学校に受け継がれ、「禅林寺」はその後「法泉寺」というお寺に変わっています。

ドラマの直江兼続はこれを最後に隠居していましたが、実際にはその後も上杉家で政務を続けていたようです。


○ もみじを手にして死んだ直江兼続・・・ 史実での最後は?

ドラマではお船と旅に出た後、屋敷で死んだ直江兼続
史実ではどうだったかと言うと・・・

史実の直江兼続は隠居していませんでしたが、「禅林文庫」を作った翌年の春から体調が悪くなり、その年の秋になって寝込むようになったようです。
そして翌年の1月、江戸の屋敷で息を引き取ったとの事です。
その死に際し、将軍・徳川秀忠からも多くの香典が送られ、上杉家で大きな葬儀が行われました。
その後、どの寺が兼続を弔うかでお寺の抗争が起こったようで、それだけ大きな影響力を持っていた事が伺えます。

ドラマでも話されていたように、直江兼続とお船は上杉景勝に対し、兼続の死後に「直江家」は断絶し、もっていた領地は全て上杉家に返上すると伝えていたようです。
これは上杉家の財政が苦しかったことに加え、「関ヶ原の戦い」での敗戦と、上杉家の縮小を招いてしまった事に責任を感じていたからだと言われています。
もちろん跡継ぎの予定だった「直江景明」が死んでしまったこともその理由です。

直江兼続の死後、お船は出家して「貞心尼」という尼になりましたが、その後も江戸の直江家の屋敷で暮らしています。


○ その後の上杉家・・・

直江兼続の死後、上杉家がどうなったのかというと・・・
兼続の死から約3年後の 1623 年、上杉景勝もこの世を去ります。

ちょうどこの 1623 年の2月、景勝の息子「玉丸」は「上杉定勝」となり江戸城で将軍・徳川秀忠と会見。
この時に官位と官職(正式な役職)などを貰い、名実共に上杉家の跡継ぎとして認められています。
そしてその約3ヶ月後に、上杉景勝は病死・・・
ギリギリのタイミングですが、逆に上杉家の継承を終えてホッとしたのでしょうか?

お船(貞心尼)はその後も江戸の直江邸にいて、護衛や領地(化粧料)も与えられており、上杉定勝が会いに来ることも多かったようです。
上杉家の記録には「兼続の死後も、大小さまざまな事をお船に相談すると良い。源頼朝(鎌倉幕府の創始者)の妻「北条政子」も出家した後に天下の政務を行った。兼続の妻も、これに似たり」と書かれています。

その後、二代将軍・徳川秀忠も死去し、三代将軍・徳川家光の時代となった 1637 年、お船は 81 歳という当時としてはかなりの高齢まで長生きし、この世を去りました
葬儀は「家臣の妻」という身分としては異例の藩をあげての葬儀で行われ、直江兼続の墓の隣に埋葬されています。

なお、1637 年に戦国期最後の乱となった「島原の乱」が起こっています。
これで戦乱の世も、完全に終わりと言えます。


○ 各武将のその後(天地人終了時は 1620 年1月)

 ●上杉家
  ・上杉景勝1623年に死去。上杉家は息子が相続する
   ・玉丸(成長して「上杉定勝」となり1623年に上杉家を継ぐ
  ×直江兼続1620年1月(旧暦1619年末)に死去
   ・志駄義秀(上杉家の家老に昇進。1632年に死去)
   ・色部与三郎(上杉家の重臣になる。1640年に死去)
   ×直江景明1615年、病死。直江家断絶
   ・大国実頼(密かに米沢に戻り1622年に死去という説が有力)
  
   ・泉沢久秀(史実では1615年、大坂・夏の陣の頃に病死した
   ・桜井晴吉(史実では 1605 年に病死と思われる
   ・山岸尚家(上杉家の重臣、1624年に改易された模様
   ・甘糟景継史実では1611年に病死している

   ・お船(兼続・景勝の死後も上杉家のため尽力した。1637年に死去

   ・お貞(兼続の妹、色部与三郎の妻。史実での名や詳細は不明)

 ●元・西軍
  ・毛利輝元(1625年に病没)
  ・毛利秀元(毛利本家とは関係が悪化。1650年に病没)

 ○徳川家
  ×徳川家康1616年、病没
  ・徳川秀忠(二代目の将軍。1623年に息子・家光に将軍を譲り大御所に。1632年没
  ・本多正信家康の死後、後を追うように2ヶ月後に死去
  ・本多正純(1622年、幕府内の政争に敗れ失脚する。1637年に没)
  ・遠山康光(史実ではずっと前に死亡している。 ドラマでは最期はなかった

  ・千姫(大坂の陣の翌年に再婚。1626年に出家、大奥で大きな力を持ったという

 ○元・武断派
  ・福島正則1619年に小大名に格下げされてしまう。1624年に病没
  ・黒田長政(1623年に病死)
  ・藤堂高虎(徳川秀忠の参謀として幕府の運営に尽力。1630年に病死)

 ○その他の大名/人物
  ・伊達政宗領地経営に専念し1636年に没。結局その野心は爆発しなかった
   ・片倉景綱(大坂の陣の後に病死)
  ・本多政重(前田家の家老となり、1647年に死去

  ・北政所(大坂の陣の後は幕府の保護を受けた。1624年に死去

今回で NHK 大河ドラマ「天地人」も終了です。
当ブログの更新もこれが最後でしょうか。

この1年間、長い間ご覧頂き本当にありがとうございました。
ある意味、大河ドラマに便乗して始めたこのブログですが、記事の作成にあたって私自身も多くの知識を得て、とても勉強になりました。
ドラマの「天地人」にはかなりフィクションが多く見られましたが、おかげで史実を解説したこのブログも存在価値が出来たのではないかと思います。

出るべき武将、出て欲しい人が出ないなど、ちょっと残念な点もありましたが、出来るだけ批判は抑え、逆にドラマが再現している史実の部分を紹介しつつ、史実とは異なる点を指摘する形で記事を書こうと心がけていました。
歴史ドラマは細かい考証や再現を含めても、歴史に詳しい人でないとそこに気付いてくれないので、その点で「損だよなぁ」というのも感じました。
まあ楽しみ方は人それぞれで良いと思うのですが、少しでも歴史ドラマを、より楽しむための助けになったらと思います。

と言う訳でこの1年、どうもありがとうございました!


○ 天地人紀行 最終回

山形県 米沢市
上杉家御廟所
林泉寺(上杉家の菩提寺、直江夫妻墓所もある)
直江兼続詩碑(法泉寺)

天地人紀行 第四十八回

これまでの天地人紀行の名所、全マップ

※なお、「天地人」の総集編 第一回は12月21日、夜10時からです。

天地人 第四十六回 「大坂城炎上」 その2

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※今回の記事は、前回の記事 「天地人 第四十六回 「大坂城炎上」 その1」 の続きです。

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○ 「大坂・冬の陣」が終わって、すぐ「夏の陣」が起こったのはなぜ?

ドラマでは曖昧にしか描かれていなかった、冬の陣の後の「大坂・夏の陣」の起こった経緯。
まあぶっちゃけ、徳川家康が本気で「豊臣家を潰す」と考えた時点で、理由なんてすべて後付けだったと言えますが、一応ここではもう少し詳しく経緯を説明しておきましょう。

「大坂・夏の陣」が終わった後、双方の間で以下のような取り決めが行われました。

・大阪城の外堀を埋める
・大坂城の「二の丸」「三の丸」の撤去
・豊臣側の領地の補償
・豊臣秀頼と淀の身の安全の保証
・豊臣家が雇った浪人たちの罪は問わない


ところがここで、徳川側は「外堀」を埋めた後、「内堀」まで埋めてしまいます!
防衛拠点となる「二の丸」や「三の丸」、さらにその周囲の砦まで徹底的に壊され、これで大坂城は掘や砦のない「丸裸」の城になってしまいました。
この「内堀」まで埋めた一件は(定説として)徳川側が取り決めを無視して勝手に行った事だと言われており、豊臣家に大きな反発や不信感を与えることになります。

一方、豊臣家は「大坂・冬の陣」が終わった後も、浪人たち(つまり兵士)をそのまま城内に留め置いていました
これは「浪人たちの罪は問わない」というのを豊臣側が都合のいいように解釈していたためだと言われていますが、徳川側は武装解除を要求していたため、それが受け入れられていないことに不信感を感じてしまいます。

そして翌年の3月・・・ ついに徳川家康は、浪人たちが乱暴を働いている事を理由に、豊臣家に「浪人を解雇する」か「別の土地に移る」かのどちらかを選ぶよう通達します。 事実上の最後通告ですね。
しかし翌月、豊臣家はこれを拒否。 同時に合戦の準備を開始。
すかさず家康は、再び各地の大名家に京都に集結するよう呼びかけます。

大坂城はすでに防御力を失っており、「冬の陣」の後に退去する浪人も多くいたため、もはや豊臣側に勝ち目があるとは思えない状況でした。
そのためか家康は、「兵糧は3日分でいい」とか言っています。
一方の豊臣側は積極的に打って出る作戦で、この状況を打開しようとしていまいた。
こうして 1615 年の4月末、戦国最後の合戦となる「大坂・夏の陣」が始まります。

ドラマでは、「夏の陣」が起こる経緯については「外堀を埋めることを条件に和議を結んだのでございます」というナレーションと、直江兼続の「残るは内堀のみじゃ」というセリフぐらいしかありませんでした。
後は最後通告を受けて秀頼と淀が怒っているシーンぐらいですね。
最近は、「大坂城の内堀を埋める事は、豊臣家との取り決めですでに決まっていた」という「新説」が出ているようなので、ドラマは直江兼続のセリフから察するに、その新説を採用しているか、もしくはその説に配慮した可能性があります。


○ 石原良純が家康にキックされてたけど、ケンカしたの?

あのシーンはフィクションです。
しかし後の「福島正則」の境遇を含めて作ったものだと思われます。

福島正則は豊臣家への忠誠を持ち続けていましたが、徳川家康にも忠誠を誓っていました。
そのためか、「大坂の陣」で豊臣秀頼から味方になるよう要請されますが、これを拒否
しかし一方で、大坂の屋敷にあった大量の兵糧が豊臣側に取られるのを黙認しています。
さらに福島正則の子や親族には、大坂城に入った者も多くいます。

そのため大坂の陣が始まると徳川幕府は福島正則に「江戸の留守役」を命じて、そのまま事実上の監視下に置いてしまいました。

そしてそれから4年後、徳川家康も死んだ後の時代に・・・
雨漏りをちょこっと直しただけで「城の無断改修をした」と難癖付けられ、広島50万石の大名から、4万5千石の大名にまで大幅格下げされてしまいます。

徳川家康の存命中は、福島正則は家康に忠実に従っています。
なのでドラマみたいに廊下で大御所キックを食らうような事は考えられませんが、福島正則には常に「豊臣家の忠臣」「いつ敵に回るか解らない」という警戒感があったことも確かなようです。


○ 「大坂・夏の陣」。上杉家は京都で空を眺めてるだけで終わってたけど?

戦国時代最後の合戦、「大坂・夏の陣」。
でも上杉軍は京都の守備を任されていたため、実戦には参加しませんでした。
一応、「夏の陣」では豊臣側が打って出てくると考えられたため、「京都を守る」というのは重要な役割ではあったのですが、事前の予想通り合戦は数日で終結したため、上杉軍に出番はありませんでした

ドラマでも、夏の陣の戦闘や経緯は完全にスルーでしたね。

でもそれでは何なので・・・
ここでは「大坂・夏の陣」の経緯を少し詳しく説明しましょう。

「大坂・夏の陣」が始まったのは 1615 年の4月末。
兵力は豊臣側が約7万5千徳川側は15万以上だったと言われています。
相変わらず兵力には2倍の差がありますが・・・ 豊臣家の当時の状況を考えると、7万でもかなりの大軍と言えます。

まず豊臣家は首脳陣の一人で「」の側近である「大野治長」の弟、「大野治房」を大将として商業都市「堺」に進攻、ここを焼き討ちして全焼させます。
これは堺が徳川軍の前線基地になる事を恐れたからで、さらに南の紀伊半島の大名家「浅野家」の進攻を防ぐべく、和歌山方面に進軍するのですが・・・
浅野軍に返り討ちに遭い、南方に進軍した豊臣軍はあっさり壊滅してしまいます。

そしてこれを受けて、徳川軍も大和(現在の奈良)方面から大坂城へと向かい、両軍が「道明寺」と言う場所で対峙します。
この「道明寺」という場所は山と川に挟まれた防衛に向いたポイントで、豊臣軍はここに真田幸村毛利勝永、明石全登、後藤又兵衛という主力武将を派遣、徳川軍を迎撃しようと考えていました。

大坂・夏の陣

ところが、この日は濃霧! 霧で前が見えず、部隊の進攻がバラバラになってしまいます!
これには豊臣軍が傭兵集団であり、非常時の部隊の統率に欠けていたのも影響があったようです。

そして戦場に先にたどり着いたのは、兵力 2800 の後藤又兵衛の軍勢。
ところが他の部隊はみんな遅れており、しかも徳川軍はすでに道明寺に差しかかっていました。
そのためか、後藤又兵衛はそこにあった山を占拠し、単独で徳川軍を押し止めようとするのですが・・・
「騎馬鉄砲隊」を率いる伊達政宗や、本多忠勝の子である本多忠政、猛将として知られた水野勝成など2万の軍勢から集中攻撃を受け、フルボッコになって壊滅。

さらにそこに、霧を抜けて「明石全登」などの他の豊臣軍の部隊が到着。
後藤又兵衛を救援しようとすぐに徳川軍に向かっていくのですが、バラバラのタイミングで到着して敵に突っ込んでいったものだから、戦力逐次投入の形になり、突っ込んだ端から各個撃破されていく展開に。
こうして道明寺の午前の戦いで、後藤又兵衛の他、多くの豊臣側の武将が戦死することになってしまいます。

後藤又兵衛を撃破した徳川軍はそのまま西に進み、山と川に挟まれた難所を通過。
そして午後に入って、ようやく真田幸村毛利勝永がその地に到着します。
幸村は到着が遅れて後藤又兵衛を死なせてしまった事で落ち込んでいましたが、毛利勝永の励ましで奮起すると、伊達政宗の部隊に突撃!
1万を超える伊達軍に大きな被害を与えます
徳川軍は大坂に近づく前に消耗することは避けるよう言われていたため、迎撃が後手になったとも言われています。
こうして幸村到着後の「道明寺の戦い」は、豊臣側が優勢になったのですが・・・
その北の方では、他の豊臣軍が苦戦していました。

大阪城の西側では、徳川軍の井伊直孝藤堂高虎が進軍中。
これを豊臣軍は豊臣秀頼の親友と言われる木村重成と、長宗我部盛親の軍勢で止めようとします。
そして長宗我部盛親と木村重成は、まず共同で藤堂高虎軍を撃破、当初は戦いを優勢に展開します。
しかしさらにやってきた井伊直孝の軍勢に対し、木村重成は「兵が疲れているから一度休ませましょう」という家臣の意見を無視して連戦で挑み、敗退。 そのまま戦死してしまいます。
こうなると長宗我部盛親も敵中に孤立してしまうため、優勢だったにも関わらず退かざるを得なくなり、これにより真田幸村も孤立する前に大阪城に戻らなければならなくなります。
大坂城はすでに防御力を無くしていたため、井伊直孝が大坂城に直進すると危険だったというのもあります。

こうして大坂・夏の陣は、いよいよ大坂城近郊の戦いに移ります


翌日、豊臣軍は大坂城の南に軍勢を集結、徳川軍もその地に集まり、いよいよ最後の決戦「天王寺・岡山の戦い」が始まります。
しかしすでに豊臣軍3万弱、一方の徳川軍は10万以上・・・ 大きな差がありました。

戦いの前、真田幸村は「豊臣秀頼」自身が出陣することを何度も要請しています。
最後の決戦で勝つには大将自らが戦場にあって、兵士を鼓舞し、士気を高めないと勝てないと考えていたようです。
しかしこれは、淀と側近の家臣が断固として拒否
幸村の再三の要請で城門までは行ったのですが、結局 秀頼は本丸に帰ってしまい、そのまま戦いが始まってしまいます。

この最後の戦いは、両軍が正面からぶつかった戦いとして知られています。
よって、部隊の移動に関する駆け引きなどはほとんどありません。
なぜなら豊臣軍にとって、もう勝つ方法は「徳川家康の首を取る」、これしかないからです。
総大将狙いの一発逆転しかなかった訳ですね。
「せめて家康を道連れに!」みたいな気持ちもあったのかもしれません。

そのためか、この最終戦での豊臣軍の戦いぶりは凄まじく、特に真田幸村の突撃は敵味方を問わず賞賛されたほどの苛烈なもので、前面に立ち塞がった徳川家の部隊を次々と討ち破り、徳川軍の本陣にも進入!
本陣の旗が踏み荒らされ、徳川家康・徳川秀忠、双方の本陣が混乱状態に陥るほどのものでした。
この戦いで、徳川家康が切腹を考えたという話や、家康が討ち取られたという伝承もあるほどです。

しかし、豊臣軍は多勢に無勢・・・
苛烈な突撃を見せた真田幸村もついに力尽き、戦死。 統率を取り戻した徳川軍に豊臣側は撃破されていきます。
開戦から3時間後、なんとか戦線を維持していた毛利勝永は全軍に大阪城内に退却するよう命令。
城を盾に最後の戦いを行おうとしますが、すぐに城内から火の手が上がり、大阪城は炎上。

その夜、豊臣家の命運は尽き、ここに戦国時代は終焉を迎えました。

ドラマでは、大坂城が燃える炎を直江兼続が眺めていました。
実際に、大坂城炎上の際、京都からは大阪方面の空が真っ赤になるのが見えたと言います。
きっと上杉軍も、その光景に戦国の終わりを感じていたことでしょう。


○ 千姫が井戸に隠れて助かったけど、助けたのはホントに幸村なの?

ドラマでは非常に重要なシーンなのですが・・・
ハッキリ言いますと、千姫救出に関するシーンは全部フィクションで、史実に沿っている部分がほとんどありません。

いや、ドラマとしてはアレでいいとは思うんですけどね。
でも史実とは別にして考えて下さい。

史実の千姫、そして豊臣家の最期についてですが・・・

いよいよ大坂城が落城間近になると、淀は千姫に「豊臣秀頼の助命嘆願をして欲しい」と言って、護衛を付けて大坂城を脱出させます。
その後、千姫は「堀内氏久」という豊臣側の武将によって「坂崎直盛」という徳川側の武将に引き渡され、その案内によって父の「徳川秀忠」の元に到着、そしてすぐに徳川家康に豊臣秀頼の助命嘆願を行っています。

しかし、もはやこの状況で家康が助命嘆願など聞くはずはありません

淀は秀頼と共に蔵の中に隠れていましたが、これは千姫による助命嘆願が承諾されるのを待っていたのだと言われています。
しかし音沙汰はなく、淀は助命が聞き入れられないことを悟ります。

翌日、淀と豊臣秀頼は、毛利勝永の介錯によって自害
毛利勝永もすぐに後を追い、豊臣家は滅亡しました。

豊臣秀頼には側室との間に2人の子がいたのですが、息子(国松)は大坂から脱出していたものの、徳川家の捜索により発見され処刑されてしまいます。
ただ、薩摩(鹿児島)に落ち延びたという伝承もあるようです。

秀頼の娘は大坂城落城時に徳川軍に捕らえられ処刑されそうになりますが、千姫が身を挺してかばい、出家することを条件に許されました。

千姫はその後、本多忠勝の孫にあたる「本多忠刻」という武将に嫁いでいます。
なお、彼女を案内した坂崎直盛が後に千姫を奪おうとして、戦国時代には珍しい「三角関係」な事件が起きたとも伝えられています。

ドラマでは、史実に沿っているのは淀が千姫を逃がしたという部分だけでしょうか・・・
まあ、ああいう事があった後ですから、千姫が家康を恨んだというのも、確かかもしれませんね。


○ 各武将の現時点の所属

 ●上杉家(西軍)
  ・上杉景勝大阪の陣で出陣、鴫野の戦いで勝利し、京都を守備
  ・直江兼続景勝と共に鴫野の戦いで合戦後、京都を守備
   ・志駄義秀(上杉軍に従軍)
   ・色部与三郎(上杉軍に従軍)
   ・直江景明(上杉軍に従軍、徳川秀忠から感状(感謝状)を貰っている
  ・大国実頼(上杉家から退去。高野山で謹慎中)
  
  ・上田衆同僚
   ・泉沢久秀(上杉家の重臣、現在は兼続の配下)
   ・桜井晴吉(史実では 1605 年に病死?、ドラマでは半士半農の「原方衆」を率いる
   ・山岸尚家(大坂の陣で上杉軍に従軍、上杉家の重臣になっている)
   ・甘糟景継史実では 1611 年に病死、ドラマでは・・・?)

   ・お船(景勝の子「玉丸」を養育中)

   ・お貞(直江兼続の妹、色部与三郎の妻。史実での名は不明)

 ●元・西軍
  ○五大老と大名
   ・毛利輝元(すでに隠居している)
    ・毛利秀元(輝元から領地を分け与えられ小大名に)

   ×真田幸村大坂の陣で奮戦し戦死。 「日本一の兵」と称えられる
   ×長宗我部盛親大坂の陣で活躍、大坂を脱出するが捕らえられ処刑

  ○豊臣家
   ×豊臣秀頼大坂の陣で敗れ、自害。豊臣家滅亡
   ×大坂の陣で浪人を集め戦うが敗れ、秀頼と共に自害する

    ・千姫(大坂城から救出され、秀頼の助命嘆願を行った

 ●元・東軍
  ○徳川家
   ・徳川家康大坂の陣で大坂城を攻める。豊臣家を打倒し天下統一
    ・徳川秀忠(二代目の将軍。大坂の陣にも参陣
   ・本多正信(大坂の陣では軍師として活動している)
    ・本多正純(大坂の陣では内堀の埋め立てなどを指揮した)
   ・遠山康光(史実ではすでに死亡している。ドラマでは兼続のライバル)

  ○武断派
   ・福島正則ドラマでは家康の豊臣攻めを止めようとした
   ・黒田長政(大坂の陣で徳川軍として戦っている)
   ・藤堂高虎(大坂の陣では徳川軍の主力。でも結構負けてる)

  ○その他の大名/人物
   ・伊達政宗大坂の陣では騎馬鉄砲隊を率いて戦うが、真田幸村には苦戦
    ・片倉景綱(史実では病で寝込んでいる)
   ×前田利長大坂の陣の少し前に病死、前田利常が跡を継ぐ)
    ・本多政重(前田家の危機を何度か救い、重臣になっている)

   ・北政所(京都で情勢を見守っている)

豊臣家が滅亡。 そして天地人も、次回で最後です。
「淀」の人物像については色々と言われていますが、結局この人は「普通の女性」だったのだと思います。
ねねのような政治的センスも、お市のような気丈さもない、夫と我が子を愛しただけの、普通の女性。
しかし普通の女性が背負うには、豊臣家の命運は重すぎたのでしょう。

豊臣秀頼は若くして死んだので、大将としての才覚は解りませんが、徳川家康は会見した時に「賢き人なり。 人の意見を聞くような人では(人の意見に惑わされることは)ないだろう」と語っています。
ただ、淀は秀頼を可愛がるあまり、外に出すことは少なく、危ないからと言って武芸なども行わせていませんでした。
超温室育ちだった訳で、これでどこまで大将として通用したかは疑問です。

「大坂・夏の陣」の戦いは、真田幸村が徳川家康の本陣に切り込む場面があるため、城田優の活躍や、家康に一泡吹かせるシーンなど、色々と「おいしい」場面が描ける素材だったと思うのですが・・・ ドラマでは全部スルーでしたね。
これはちょっと勿体なかったかなぁ・・・

そしていよいよ、天地人も次回でラストです。
このブログも、次で終了になるでしょうか・・・? 総集編もあるとは思うけど。


○ 天地人紀行 第四十六回

・大阪府 大阪市
・鴫野古戦場の碑(大阪市立城東小学校内)
・真田幸村像(三光神社内)
・茶臼山
・安居神社(真田幸村戦死跡之碑)

天地人紀行 第四十六回

これまでの天地人紀行の名所、全マップ



天地人 第四十六回 「大坂城炎上」 その1

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戦国時代の終幕「大坂の陣」が描かれる回です。
そして天地人も、今回と次回で終了となります。

大阪の陣が描かれると言っても、大坂の陣の戦いの模様はほとんどなく、物語の中心と言える直江兼続と徳川家康の対面シーンや、千姫救出のシーンは、すべてフィクションです。
ドラマとしては面白かったと思いますが、史実とは全く違うので、この点は間違わないようにしましょう。

なお、今回は内容が長くなるため、今日明日の2回に分けて投稿いたします。
ご了承下さい。<(_ _)>


○ 今回の時期 1614年 ってどんな頃?

・「関ヶ原の戦い」から14年後
・徳川家康が「江戸幕府」を作ってから11年後
・徳川家康が将軍職を息子の「徳川秀忠」に譲ってから9年後
・つまり、すでに世の中は徳川幕府の統治による「江戸時代」になっている
・戦国時代の大名達の戦いが「昔語り」として伝えられていた頃
・豊臣家を徳川家が攻めた「大坂・冬の陣」があった年
・キリスト教の信仰はこの数年前から禁止されている


すでに「太平の世」と言っていい時代です。
もちろん多くの大名家はまだ武装していましたし、戦国時代を生きた多くの武将達も残っています。
しかし、その武将達もすでに戦国の終焉を感じていた頃ですね。
でもその一方で、この数年前から豊臣家は急に浪人を雇い、兵糧や武器の蓄えも開始していていて、それに対抗するように徳川家も武器や大砲の製造などを開始。
大きな戦いが起こるのではないかという予兆が見えていた時期です。


○ 徳川秀忠と伊達政宗の要請で、直江兼続が大坂攻めを中止するよう直訴してたけど?

この話は、これの「元ネタ」になりそうなものも含め、私は全く聞いたことがないので、おそらく天地人での完全な創作だと思います。

史実の徳川秀忠は大坂城攻めで「関ヶ原の時の汚名を晴らす!」と徳川家康が止めるのも聞かずに先陣を望んだぐらいですし、上杉家も「謙信公以来の武門を見せる時が来た」と張り切っていました。
伊達政宗はドラマでもイヤイヤ中止を要請していた感じでしたが、実際に政宗が合戦を止めるようなことを言うのはあり得なかったでしょう。

天地人のストーリーを考えると、このまま上杉家が豊臣家を攻めると単なる「裏切り」みたいに見えますから、それを修正するための物語上の展開だと思われます。
史実とはまったく異なりますが、「天地人の物語」としては必要なシーンだったと言えますね。

ただ、豊臣秀頼に嫁いだ「千姫」の事は、父の徳川秀忠も、祖父の徳川家康も気がかりだったようです。
後に家康は「千姫を救出した者は十万石の大名にしてやる!」という告知を出しています。


○ 「真田幸村」再び戦場に登場! でもなぜ幸村は豊臣側に?

城田優が再び赤い甲冑を着て、豊臣側の将として登場します!
真田幸村にお呼びがかかったのは、ドラマで淀が語っていたように、「真田家は2度に渡って徳川家を討ち破った」過去があるからです。

一度目は 7000 の徳川軍を 1000 程度の兵で完膚無きまでに討ち破った「上田城の戦い」。
この様子は 第二十二回 真田幸村参上 の回で解説しています。
もう一つは 3500 程度の兵力で3万以上の徳川秀忠軍を足止めした、関ヶ原の戦いの際の「第二次 上田合戦」です。

ただ、この2つはどちらも父の「真田昌幸」の指揮によるもの。
真田幸村は真田昌幸の息子ではありますが、大坂城入城の時点では特に手柄はないため、徳川家康は「真田が大阪城に入った」という報告を聞いて驚きますが、「息子の方だった」という続報を聞いて安心した、と言われています。
しかしこの真田幸村の活躍で、徳川軍は大きな被害を被ることになります。


○ 徳川20万、豊臣12万。 豊臣に味方した大名は皆無、その割に豊臣多くない?

徳川家康は全国の大名に豊臣討伐のため参陣するよう要請、そして全国から軍勢が集まりました。
一方、豊臣家も全国の大名に味方するよう嘆願しますが、応じた大名家は1つもありません。
その割には・・・ 豊臣家には12万の兵力が集まっています。
これはこの「大坂の陣」という戦いがいかに「特殊だったか」を物語っていると言えます。

豊臣家はこの数年前から資金を惜しみなく使い、全国から浪人を集めました。
「関ヶ原の戦い」の際、西軍に味方して没落してしまった大名家やその家臣、武士達が全国にたくさんいたため、その浪人達たちが関ヶ原のリベンジと「お家再興」を目指し、数多く大坂に集まったのです。

主な武将としては、
関ヶ原の後に取り潰された四国・長宗我部家の末裔「長宗我部盛親」、
関ヶ原で毛利軍として布陣していた「毛利勝永」、
関ヶ原の宇喜多軍の主力で熱烈なキリシタン、徳川家のキリスト禁止に反発していた「明石全登」、
他にも武闘派として有名な「後藤又兵衛(後藤基次)」や、大谷吉継の子「大谷吉治」、仙石久秀の子「仙石秀範」などがいます。

もちろん豊臣家に恩義を感じていて、それで豊臣家に従った武将もいます。
福島正則の子「福島正守」なんかもそのようですが、でも父の「福島正則」本人は、徳川家から「危険人物」として目を付けられていたため、江戸で軟禁状態にされていました。
また、「これが戦国最後の合戦だろう。豊臣家に従って死に花を咲かせよう」と考えて、最初から死ぬつもりで参加した武将も多かったようです。
三好家の生き残り「三好政康」も、そうした「死に花」組だったようです。

そして豊臣家の一般兵士には、傭兵や傾奇者(かぶきもの)が多かったことも特徴です。
各地で合戦があった戦国時代、お金を貰って兵士になる「野武士」などと呼ばれた傭兵まがいの集団が多くいました。
しかしそうした集団は、太平の世になると仕事がなくなります。
そのためその多くは一攫千金や出世を夢見て大阪城に入ったようで、中には山賊の類もいたようです。

傾奇者(かぶきもの)は今で言う「不良」「ヤンキー」みたいなものですね。
こうした人・グループの多くは当時、戦国の世に「あこがれ」のようなものを持っていたようで、合戦での活躍と立身出世を夢見て、大坂城に傭兵として入る者が少なくなかったようです。
すでに「関ヶ原の戦い」から14年・・・ 当時は「戦国」がすでに「現実」ではなく「物語」になりつつあった時代でした。
(だからこの手の人の中には、ゴテゴテに着飾って出陣し鎧が重すぎて馬がバテて身動き取れなかったとか、めちゃデカい旗を背負って現れて突風にあおられハデに落馬したとか、色々笑い話になってる人も多いです)

これらを集めたことで、豊臣家は10万以上という、当時の豊臣家の規模から考えるとかなり大多数といえる兵力を集める事が出来た訳ですが・・・
しかし中を見てみると、傭兵や素性の知れない者の寄せ集め。 徳川軍は大名家の正規軍。
これでは「大坂城」があっても、勝つのは難しかったのが実情です。


○ 大坂の陣で戦っていた上杉家、その戦いぶりはどうだったの?

ドラマでは上杉家の戦いぶりは、ほとんど描かれていませんでした。
戦ったのでございます」で終わっていましたが・・・

上杉軍は「大坂・冬の陣」では約 5000 の兵を率いて「鴫野(しぎの)の戦い」という合戦を行っています。
これは大坂城の西で行われたもので、豊臣軍はここを約 2000 の兵で守っていましたが、上杉軍はこれを撃破。
その後、豊臣軍はこの報告を聞いて1万以上の兵力を救援に向けますが、徳川軍もすぐに救援を出し、両軍激戦となった末に上杉軍が豊臣軍を押し返しています。
この時、上杉軍は部隊を左右に分け、その中に入り込んだ敵に鉄砲を一斉掃射し、さらに追撃するという作戦を取ったと言います。

鴫野の戦い

※上記の画像は現在の地形であり、当時の地形とは異なります。

さらに北の方では、古くからの同盟国である大名家「佐竹家」の軍勢が苦戦していたのですが、これの救援も行って、その方面の豊臣軍も撤退させています。

なお、この地点を占領後、徳川家康は別の部隊と交替して休むよう命令したのですが、上杉景勝は「武士として生まれ先陣を争い、身を粉にして戦って奪った土地を、他人に任せることなど出来ない!」と、これを拒否するという一幕があったようです。


○ 「真田幸村の奮戦で徳川に大打撃を与えた」って言ってたけど、どうやって?

「大阪・冬の陣」でもっとも激戦となったのが、真田幸村が築いた出城「真田丸」の攻防です。
出城とは、その名の通り城の外壁などの出っ張った部分に築かれた小型の城や砦のことですね。

大坂城は、周囲を淀川や大和川などの大きな川に囲まれた、「天然の水掘」がある城でした。
しかし南側には川がなかったため比較的手薄で、徳川軍もそこからの進攻を準備します。
そこで真田幸村は、そこに城を築き、それを前線の防衛拠点として敵の進攻を阻もうとしました。

ただこれは戦術的な理由以外に、「自分の思い通りに戦いたいから」というのもあったようです。
真田幸村は当初、大坂城から出撃して各地で敵を遊撃する「積極策」を主張していました。
しかしそれは却下され、豊臣家の首脳部は大坂城で篭城する作戦を取ります。

真田幸村は豊臣家にお願いされて大坂城に入った訳ですが、豊臣家の中枢部は淀とその周辺の家臣
幸村が作戦を提案しても、なかなか通らなかったようですね。
そこで本陣から離れ、真田家の家臣団だけで守る「真田丸」での防衛を決めたようです。
いずれにせよ、敵の進攻方向が決まっている以上、そこで守りを固めるのは定石ではあります。

開戦時の大阪城南部の布陣と、各軍の進行方向は以下のような形です。

真田丸の攻防

大坂城のような巨大な城をまともに攻めても大被害が出るだけです。
それは徳川軍も解っていましたから、徳川家康は当初、包囲だけして打って出ないよう命令していました。
しかし真田幸村は、真田丸の前面にある「篠山」という山に伏兵を潜ませておき、前田軍に何度も鉄砲を撃って挑発します。
そのため前田軍は数日後、篠山に一斉攻撃をかけますが・・・ もぬけの殻。
真田軍はすでに篠山から退いていて、しかもその様子を見てワザとバカにするように大爆笑します。

これでキレた前田軍の先発部隊の一部が、ついに真田丸に攻撃を開始
するとこれを「前田軍の抜け駆け」かと思った 井伊直孝、松平忠直藤堂高虎 の部隊も真田丸に殺到します!
前田軍も前線部隊を放置しておけないので進攻を開始、しかしそれは真田幸村の思う壷でした。
十分に引きつけ、敵が城壁に取り付いたところで真田幸村は反撃を開始
準備していた罠や鉄砲隊で一斉に徳川軍を撃ちのめします。

しかもここで不意の事態が発生、真田丸の後方の大坂城内で、火薬の爆発事故が起きて櫓が焼け落ちたのです。
徳川軍は事前に、豊臣軍の武将「南条元忠」という人に合戦中に寝返るよう調略(寝返り工作)をかけていました。
真田丸の後方の事故はこの南条元忠の寝返りによるものだと思った徳川軍は、これをチャンスと見てさらに一斉に攻撃を開始!
ところがこれは単なる事故。 実は南条元忠は、すでに寝返りがバレて処刑されていた後でした。
おまけに豊臣軍の「後藤又兵衛(後藤基次)」が、南条元忠の署名で「バッチリ寝返りますよ〜」という「偽書」を徳川軍に送っていたものだから、徳川軍はみんな勘違いしてしまいます。

こうして徳川軍は爆発事故のあった辺りで城門が開くものと思い進軍しますが、当然開かない上に城内から攻撃を受けまくってボコボコに。
真田丸を攻めていた部隊も鉄砲射撃でさんざんに撃ちのめされ、ついに撤退を開始しますが、すかさずここで真田軍、及び後方の豊臣軍が一斉に打って出ます。
後はもう掃討戦に近い状態となり、徳川軍は大被害を被って撤退することとなりました。

その後、この被害を見て徳川家康は大坂城を力攻めで落とすことを断念
豊臣側との和平交渉を開始します。

一方、豊臣側の方も大砲を連日撃ち込まれていて疲労困ぱい。
昼夜問わず飛んでくる大砲で守備兵は夜も寝られない状態で、特に大坂城の本丸に大砲が命中し、淀の目の前で侍女の一人が死んだため、当初はやたら強気だった淀も一気に意気消沈
そのまま和平交渉に応じることを決めます。

豊臣側は大坂の陣になっても「淀」が強い力を持っていましたが、彼女はやはり女性。
連日撃ち込まれる大砲に怯えていたようで、これも豊臣側が長期戦が出来ない理由であったようです。

こうして、「大坂・冬の陣」は終わりますが・・・
それは「大坂・夏の陣」の始まりに過ぎませんでした。

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続きはまた明日、投稿いたします。



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